覆水盆に返らず
「カルナさん! カルナさん!」
……マスターはボロボロになったカルナに取りすがり必死に呼びかけている。だが、奴が動く事は二度とないだろう。なぜなら黒が完膚なきまでに打ちのめしたからだ。私はそれをただ呆然と横で眺めていただけだった。
喉をクツクツと鳴らしながら黒は嗤う。
「邪魔な奴が一人死んだぞ? あとはそこのマスターを殺せばお終いだ。そうすればお前は完璧な英雄アルジュナに戻れる!」
「わ、私は……」
「お前が出来ないというなら俺がやろう。今までそうしてきたように」
「そ、れは……」
「誰であれ黒を見た者は殺さなくてはならない。そうだろう? アルジュナ。照準を定め、矢をつがえ、放つ。簡単な事だろう」
耳元で黒が囁く。やめろ、聞きたくない。やめてくれ。──ああ、でもマスターに知られてしまった。醜く悍しいこの顔を。英雄アルジュナにあってはならない汚点を見られてしまった。英雄アルジュナは完璧でなくてはならない。悪心などあってはならないのに。
「そうだ」
「マスターは見てしまった。──黒を。……ならばやる事は一つしかあるまい?」
「大丈夫」
「いつものようにやればいいだけのことさ」
「アル、ジュナ……?」
こちらを見るマスターの目が見開かれている。その瞳の中にはマスターに向かって矢をつがえる私の姿がハッキリと映り込んでいた。
「そうだ、それでいい」
黒が囁く。
マスターの手足は恐怖からか小刻みに震えており、立つのもやっとといった様子だった。それでもなおこちらを真っ直ぐに見つめる暁の瞳がこちらを射抜く。
「……やめろ」
──その目で見るな。醜く悍しい本性を暴き立てるような目で見るな。
「……私を……見るな……!」
ほとんど衝動的に矢を放つ。動揺していたせいか照準がぶれ、マスターには当たらない。
「チッ……外したか。……まあいい。大丈夫だアルジュナ。お前ならやれる。そうだろう?」
黒の声が反響する。そうだ、やらねばならない。これは正しい、必要な殺人だ。
先ほど自分目掛けて矢を放たれたにも関わらず、なおもこちらに近づいてくるマスターに照準を合わせる。
「アル、」
「やれ」
放たれた矢が空気を切る音がした。ドサリ、とマスターが倒れ込む音がその後に続く。その胸──心臓の上には放った矢が深々と突き刺さっていた。じわじわと白いカルデア制服が赤く染まっていく。
「ははははははは!」
黒の哄笑が虚ろな空間に響き渡った。
「これで邪魔者はいなくなった! 黒を見た者は誰もいない! そうだ! これでいい! 『アルジュナ』の完璧さを損なう者はもういない!」
「よくやった。──よくやったよ、アルジュナ」
「これでお前は完璧な英雄だ」
黒が上機嫌で語りかけてくる中、私は呆然としていた。マスターが流す血の赤が厭に目につく。──これでアルジュナは完璧になれる、と黒は言った。
「これが……完璧……?」
「そうだ、これが『英雄アルジュナ』だ」
……これが完璧なものか。完璧なら私は満たされているはずなのに。……何故、こんなにも虚しいのだ。……カルナとは違う意味で私を理解しうる人間を殺したのかもしれない──そう悟った時にはもう何もかもが遅すぎた。
覆水盆に返らず/dead end