衝動的なキッスをしよう〜プリ拓の場合〜
よねさんが亡くなってだいたい七週間が経った。
集落の中では当時最高齢で、クローン拓海も何かと気にかけてその家を訪れていた。
「俺にとっては本当の祖母みたいな人だったな」
そう思ったのは、きっとオリジナルの記憶が持つ和実よねの思い出と重なるところが多かったからかもしれない。
よねが大往生を遂げた日、クローン拓海が人目を憚らず泣いていたのをプリムは鮮烈に覚えていた。
村人のほとんどが参加したよねの四十九日法要を終え、拓海は、同居人のプリムとプーカと共に自宅への帰り道を歩いていた。
「拓海、今日は泣かないんだね」
横を歩いていたプリムからそう問われ、拓海は、そうだな、と静かに笑った。
「これで最期のお別れだから、ちゃんと笑顔で見送ろうと思ってな」
「我慢してた?」
「そうでもないさ。村のみんなと思い出話してたら自然と笑顔になれたよ。まぁ、寂しいけどな」
山間の集落に冬の風が吹いた。田畑はまだ雪に覆われ、表面に積もった粉雪が舞い上がり日差しに煌めいた。
その景色に人影はない。限界集落に暮らす人の数は、よね以外にも減ろうとしていた。
「よねさんの親族は街に引っ越すって言ってたプカ」
雪道に肉球の足跡をつけながら、プーカが言った。
「サワダのおばあちゃんも老人ホームに行っちゃったプカ。この村もどんどん人が減ってくプカ」
その言葉にプリムもため息をついた。
「サワちゃんの煮っ転がし好きだったのに、もうお裾分けしてくれないんだな。……代わりに増えるのはイノシシとシカばかりだね」
山の斜面沿いの道。そばにある冬野菜──キャベツやニンジン畑の向こうにある木々に覆われた山の奥から、微かに豚のような鳴き声が聞こえてきた。
プリムが口元の涎を拭った。
「かかってるね。大物だ」
その横で、拓海が肩に下げていたバッグからナイフを黙って取り出した。刃渡り15センチの幅の広い狩猟用のナイフだ。
法要帰りだが、仕掛け罠の見回りは毎日しなくてはならないため、拓海はツナギ姿で参加していた。
二人と一匹は道を外れ畑を渡り、鳴き声のする方へと踏み込んでいった。
細い木が密集し、雪が地面を覆う斜面を少し登ると、雪をかき分けたような細い獣道が現れ、その先で一頭のイノシシが脚をくくり罠に囚われてもがいていた。頭胴長130センチメートル、体重はおそらく100キロ近いだろう。ニホンイノシシとしては標準的な大きさだが、それだけの大きさの獣が必死にもがいてる姿は迂闊に近づくと怪我では済まない危険があった。
拓海は周囲を確認して他の獣がいないことを確認すると、バッグからさらに数本の短い棒を取り出し、それを繋ぎ合わせて一本の長い棒にすると、その先端にナイフを取り付けた。
「二人とも、ここで待っていろ」
狩猟免許を取得しているのは拓海一人だけだ。拓海は槍を手に斜面を登ると、高い方の位置から罠にかかったイノシシへゆっくり近づいていく。
イノシシは脚を罠にかけられ、転倒してもがいていた。本来なら下に向けられているその胸元が、のたうつたびに天を向く。拓海は慎重に槍を構えると、タイミングを見計らって一息にその胸を突いた。ナイフの刃先が心臓に潜り込み、その巨体が電気ショックを浴びたように激しく痙攣する。
拓海は即座に槍を引き抜いた。傷口から噴き出した血が積もった雪を赤く染め、その上でイノシシが小刻みに痙攣を繰り返して、やがて動かなくなった。
拓海はしばらくその様子を眺め、イノシシが完全に動かなくなったことを確認すると、槍を斜面に突き刺し、合掌して目を閉じた。
離れた場所で、プリムとプーカも、同じように合掌した。
〜〜〜
イノシシ解体は重労働だ。昼間のうちになんとかこなしたものの、帰宅して、風呂に入って、そしてようやく牡丹鍋にありつく頃には夜もすっかり更けていた。
「「「いただきます」」」
イノシシ肉はたっぷり油がのっているのにしつこくなく、深い味わいがある。三人で取り合うようにしてあっという間に鍋が空っぽになった。
「「「ごちそうさまでした」」」
三人で昌和し、プリムは囲んでいた囲炉裏のそばですぐに寝転んだ。
「お腹いっぱい。生きてるって感じ」
「プリム、ちゃんとお片付けするプカ」
「お腹苦しくて無理。動けない」
「プカーッ!」
垂れ耳が持ち上がるほどの剣幕で叱ろうとしたプーカを、拓海がまぁまぁと宥めた。
「俺たちが食い切れなかった分まできちんと平らげてくれたんだ。今日は多めに見てやろう」
「そうやって拓海が甘やかすからプリムが調子に乗るプカ。お片付けサボるのは今日だけじゃないプカ」
「でも、獲った命を残して捨てるのは偲びないからな。まして今日は四十九日法要だ。イノシシも供養してやらんとバチが当たる」
「そうだぞプーカ。僕が食べきったからイノシシさんもきっと喜んでクヨーでジョーブツ、ってやつになれるんだ」
「供養も成仏も意味がわかってないくせに調子に乗るなプカ」
プーカはやれやれとため息をつきながらプリムの分の食器もお盆に乗せて、その小さな体で台所へと運んでいった。
拓海も空になった鍋を自在鍵から外し、台所へ運ぼうとする。
「ねぇ、拓海」
寝転がったままのプリムから声をかけられ、拓海は脚を止めた。
「どうした?」
「今日、お寺の人が言ってたジョーブツって、なんだっけ? よくわからないよ」
寝転がったまま問いかけ見上げてきた彼女に、拓海は少し考えてから、言った。
「生きて、それが無駄にならずに、ちゃんと死ねた……ってことかな」
「よねさんも、イノシシも?」
「よねさんはそうだといいな。……イノシシは多分、人間の勝手だって思ってるかもしれない。畑の作物を食べたら困る人が居るなんて、イノシシには理解できない理由だ。人間の都合で駆除した。肉を食い切って供養だなんて、自分自身に対する言い訳だよ」
「でも美味しい」
「そうだな。俺たちは命を美味しく頂いて生きてる。それを忘れないことだ」
「そして死ぬんだね……いつか、僕たちも……よねさんや、イノシシみたいに」
「……そうだな」
プリムが天井を見上げて、それきり黙ってしまったので、拓海も鍋を持って台所へ向かおうとした。
でも、
「拓海」
「ん?」
またプリムに呼ばれて拓海は振り返った。プリムは天井を見上げたまま、ポツリと呟いた。
「僕たちが死ぬ頃、この村には誰か残ってるかな……?」
「残ってないだろうな。俺たちが多分、最後に残る村人だ」
「じゃあ……僕たちが死んだら、誰も泣いてくれないんだね……」
その言葉は独り言のように淡々としていて、拓海はそれに答えようとして、けれど答える言葉を持っていなくて、
「そうかもな」
それだけ呟いて、台所へ向かった。
囲炉裏のそばに残されたプリムは、横たわって天井を見上げたまま、膨れたお腹を手でさすった……
〜〜〜
田舎の農家は二人と一匹で住むには充分以上の広さがある。襖で仕切ればそれぞれに専用の部屋を設けてまだ余りあるくらいだ。
だけどそれは暖房を行き渡らせるには広すぎるという意味でもあり、そのエネルギーロスを節約するために、二人と一匹は同じ部屋で寝起きしていた。
襖で六畳一間に区切られた畳敷の寝室に、布団を二つ並べて、一つは拓海、もう一つはプリムとプーカで、川の字のように並んで就寝する。
すぅ、すぅと小さな寝息はプーカのものだ。
それを耳元で聴きながら、プリムはそっと寝返りを打って、拓海の布団に近づいた。
「ねぇ、起きてる?」
そっと囁くと、暗がりの中で、拓海が顔を向けた気配がした。
「どうした? 食い過ぎでまた腹でも壊したか?」
「違うよ。失礼だね」
唇を尖らせて抗議したけれど、年末年始で二度も寝込んだ身としてはそう思われても仕方ない部分はあった。
「じゃあ、どうした?」
拓海からの静かな問いかけに、プリムは、あのね、と夕食後からずっと考えていたことを呟いた。
「子供を作らないか」
「…………………」
長い長い沈黙が降りた。てっきり聴こえなかったのかな、とプリムは思い、もう一度言った。
「僕たちで子供を作ろうよ」
「聞き間違いじゃなかった……」
拓海は暗闇の中ではぁとため息を漏らしながら天井を見上げた。
「一応訊くけど、シュプリーム時代にプーカを生み出したり分身を作ったりとか、そういう力はお前にはもう無いんだよな?」
「うん」
「じゃあ自分が何を言っているのか、意味はわかってるか?」
「うん。僕は人間の女性体で固定化されたから、子供を産む機能がある。だからそれで子供を作る。でもそれには男性の協力が必要。だから君に頼んでる」
まるで保健体育の授業だな、と拓海は呆れながら、訊いた。
「なんで急に子供が欲しいなんて思った?」
「だって寂しいだろう。僕たちが死んだ時、誰か泣く人が必要だ」
「それはまぁ、そうだけど」
でも何かが根本的にズレている気がする、と思った時、プリムが続けた。
「僕は、死というものが未だによくわからない。……というより、生きるってことだって、まだわからないんだ」
「………プリム」
「シュプリームとして宇宙を彷徨ってたときは、生も死も無かった。時間って感覚も無かった。戦うに値する相手を見つけたときだけ、僕には心が生まれ、それを倒すことに喜びを感じて、強くなって……また心が消えるんだ。僕はまた何も感じない宇宙の漂流者となって、自分でもわからない力に流されるみたいに、星々の間を飛び続けた……」
人間から見れば地球をも容易く破壊して思うがままに作り変える能力を持っていたシュプリームは、想像を絶する強大な怪物だった。
だけどそんなシュプリームですら、宇宙の果てしなさに比べればほんの微かな存在でしか無かった。
光を浴びただけでその圧力で押しつぶされてしまいそうな超新星の爆発。囚われたら永遠に抜け出せないブラックホール。そんなものが砂粒のようにありふれている宇宙の海。
シュプリームはその砂粒以下の塵にすら等しいちっぽけな存在でしかない。
「どれだけ強くなっても、太陽一つにさえ及ばない。その虚しさが、プリキュアたちと戦って、この身になって、やっと分かった。シュプリームとして数多の強き者たちと戦ってきたことと、ここでイノシシを狩って食べることと、違いなんて何もないんだ」
だけど、とプリムは続けた。
「シュプリームと違って、僕はいつか死ぬ。よねさんや、狩ったイノシシみたいに。その時、僕は何を遺すんだろう?」
イノシシの命は自分の血肉になった。よねさんは子供や孫や、村のみんなに見送られた。
自分は、どうなる? なんのために生きている?
わからない。わからないけれど、ひとつだけ望むことがある。
「僕が生きたことを、誰かが覚えていてほしいんだ」
「覚えているさ。俺やプーカが覚えている。ゆいや、ソラ、まなつもだ。お前と戦って、そして仲間と認めてくれた他のみんなだって、忘れやしない」
「でもみんなも死ぬよ。きっと、僕らと一緒に年老いて、同じくらいの時に死ぬんだ」
それはそれで寂しくないけど、とプリムは小さく呟いて、また続けた。
「家族が欲しいんだ。よねさんみたいに、僕たちが死んだ後も、この世界で生きて思い出を語ってくれる、そんな人が欲しい……」
呟きながら、プリムは布団から手を差し伸ばした。
その手が拓海の布団に潜り込み、彼の手を握った。
「子供って、家族で作るんだろ? サワちゃんもさ、早く僕たちの子供が見たいね、って話してたよ」
「サワダのお婆ちゃんも余計なこと言うなぁ」
拓海は小さく呆れ笑いながら、プリムの手をそっと握り返した。
「拓海……これは合意と受け取っていいのかな?」
「考えておく。とりあえず今夜はもう寝ろ」
「はぐらかさないでよ」
プリムが手を離し、寝転がったままもぞもぞと拓海の布団に入ってきた。
「プリム」
「君、僕が何にも理解してないって思ってるだろ?」
プリムが拓海の上に覆い被さって、胸に顔を押し付けるみたいに抱きついた。
「ちゃんとわかってる。子供がどうやって作るかなんて、もう知ってる」
「っ……そうか」
拓海が顔を赤くして動揺していると、プリムが彼を見つめて言った。
「拓海は……?」
「それは……」
言い淀んだ拓海の唇に、プリムの唇が押し当てられた。冷たい唇の感触に驚きながら、拓海は瞳を閉じて受け入れた。
(人工呼吸みたいだな……)
そんな感想が浮かんだ時、ぬるりと唇を割って柔らかい舌が忍び込んできて、拓海の舌を捉えた。
「んっ……はむっ……んっ」
プリムが積極的だったのはほんの二、三秒。すぐに唇を離して顔を背けた。
「これでよし。どう、上手にできたと思うんだけど」
どこか得意げな声で口元を押さえるプリムを、拓海は少しの間、呆然と眺めた。
自分の舌先に、絡み合ったプリムの舌の感触がまだ残っている。それを反芻するように拓海は指でそっと唇を拭った。
「こんなのどこで覚えたんだ?」
「サワちゃんがさくらんぼで練習すればいいって」
「また迷信じみたことを。いやまあ確かに上手だったけど」
そう答えると、プリムがホッとしたように笑った気配がした。
「子供、できたかな」
「ん?」
拓海の胸の上から寝返りを打って横に添い寝しながら、プリムはお腹を撫でた。
「妊娠がわかるのは三週間後だってさ。楽しみだね、拓海」
「ん? ん?」
「男の子かな、女の子かな。名前はどうしようかな」
拓海の腕枕に頭を預けながら楽しげに話すプリム。
(あー………こいつ、もしかして)
子供の作り方、やっぱり理解してないだろ。拓海は首をプリムから反対側に向けた。
プリムは自分の布団とは反対側に転がっていたので、残されたその布団側で、プーカが顔をこっちに向けていたのがわかった。
プーカは拓海と目が合うと、呆れたように黙って首を横に振って、それから背を向けて布団に潜り込んだ。
(やれやれだな。……ま、今はこれで良いか)
「拓海、聴いてるの? 君も名前ちゃんと考えてよ」
「はいはい」
クローンとして生みだされ、生まれた理由もさっぱりわからないまま命をいただき、命を見送り、そして奇妙な縁で繋がれたプリムとプーカと、今を生きる。
未来を共に生きる。未来を共に生み出す。その想像は、拓海に不思議な温もりを感じさせた。
「早く子供に会いたいね」
プリムが無邪気に微笑みながら、再び拓海に抱きついてきた。腕枕した掌でその髪を撫でながら、そうだな、と答えて目を閉じた。
プリムの穏やかな鼓動を感じながら、拓海は穏やかな眠りに落ちていった……