蛇との婚姻
相手のナイフを受け流し、弾き飛ばす。体勢が崩れたのを見て顎に拳を打ち込む。念のため胸の中心部にも膝蹴りを入れると、敵の身体は吹き飛んで壁に激突した。動く様子はない。
(死亡したか。瀕死の状態が好ましかったが)
私たちのように生き返るでもなし、死んでしまったものは仕方がない。ぐったりとして重たい肉の塊を担ぎ上げて立ち去ろうとすると、するりと足元になにかがまとわりついた。一歩足を引くと、そこにいたのは一匹の蛇。透き通るような水色の地に白い鱗が網目のように規則正しく配色されている。それがまるで引き止めるかのように足元をうろついていたが、やがて離れて路地の奥の闇へと消えた。なんとなくそれを見送ってから、私もバスのほうへ再度歩き出した。
異常がはっきりと表れたのは、三日後の朝のことだ。目を覚ますと視界がどこかぼやけている。身に覚えのない状況に昨日の行動を振り返るが心当たりはない。手探りで身支度を整えながら、色覚にも異常が発生していることを確認する。このままでは業務に支障をきたす恐れがあるため、管理人様に時計を回してもらわなくてはならないだろう。
「廊下」からバスに繋がる扉を開けると、空気の揺らぎや動いている影から判断してすでに何人かの囚人が持ち場についているようだ。しかしその物音や会話は壁を一つ挟んだようにぼんやりとして、むしろ足元からの振動が強く意識される。これも報告すべき事項だと頭に書き加えたとき肩に手を置かれた。視線を向けると誰かが話しかけている。しかし朧気な視覚と聴覚で判別ができない。
「現在視覚と聴覚に異常をきたしている。知らせるべき事項があれば紙に書いて渡すか、管理人様が時計を回したあとにしてほしい」
そう伝えたが人影は動こうとしない。むしろまた影が集まってくる。床と空気が震えて騒がしい。厳密には満足に音を聞くことができていないので、騒がしいという表現は不適切なのだが。
《みんなおはよう…どうしたの?》
伝わってくる振動の中で、管理人様の「声」がはっきりわかった。しかし、視線を向けるとそれらしい動きをするものはいても、いつもの赤いコートはうまく認識できなかった。
ほかの囚人がなにかを話しているのだろう。しばらく人影に囲まれていた管理人様は、一つうなずいていつもであればイシュメールが着席する場所に腰を下ろした。
《ムルソー、私の声が聞こえる?》
「はい、聞こえます」
《自分の状態を説明できる?》
「はい。現在視覚と聴覚に異常が発生しています。視力が著しく低下し、特に赤に類する色を知覚しづらくなっているようです。聴覚も同様に鈍くなっていますが、足との接地面からの振動をむしろ強く感じるようになりました」
《あー…うん、なるほど…ちょっと舌見せてもらえる?》
「?…わかりました」
意図は不明だが、指示に従い舌を突き出す。違和感。想定している以上に、長い。少なくとも常人の舌の長さではなくなっている。さらにやけに周囲の匂いが鮮明になった。ほこりや体臭、バスに染みついた血の臭いまではっきりとわかる。少しだけ眉をひそめた。
《ははあ、これはまた…ありがとう、もういいよ》
「はひ」
《もう一個質問。最近蛇を見なかった?》
記憶をたどる。三日前に遭遇した水色の蛇を思い出した。
「三日前に一度」
《オッケー。それじゃあちょっと出かけようか。今回は時計で解決するのが難しいんだよね》
「わかりました」
すぐに時計を回さないのかと不思議に思ったが、指示には従わなければならない。立ち上がったタイミングで再び「廊下」に繋がる扉が開いた。
《あ、ちょうどいいところに。ちょっと待ってね》
管理人様が席を立つ。ちょっととは具体的にどのくらいの時間なのだろうか。秒数を数えていると、五分と経たないうちに彼は戻ってきて私の手を取った。
《おまたせ。とりあえずバスの外までは私が引っ張ってくね。そこから先はきみの直感で進んでほしい》
「具体的な目的地はないのですか?」
《そりゃあるけど、呼ばれてるのはきみだからね。ついていくのが手っ取り早い》
「私がなにかに招かれている事実はありません」
《えっと…きみはたぶん三日前に会ったという蛇に気に入られた。だからきみを同族にしようとしている。同族にするには取り込んで交わるのが一番確実だから、きみの身体を蛇のそれに近づけたうえで呼ぼうとしている。なのできみの勘に従って進めばその蛇がいる場所に行ける。そういう感じ》
「理解しました」
《ならよかった。じゃあ行こう、ヴェルギリウスが来る前に終わらせたいし》
管理人様に案内され、バスの中を通ってタラップを降りる。眩しい。一瞬舌をチラつかせると雨上がりの匂いがした。蒸し暑さに小さく息を吐く。背後からもう一人降車する気配がしたが、いまは管理人様の指示に集中することにする。
《さて、気になる方向とかある?》
「…あちらのほうが」
《了解》
手を引かれるままに足を踏み出す。ぼやけた視界の中でもわかる、眼下に位置する時計に揺れる炎。それを道標とするように、歩く。時折立ち止まっては行く先を尋ねられ、そのたびに方向を示し、また進む。導いているのか、導かれているのか。普段ほとんど己の意思というものを表示しない自分が管理人様に道を示している状況は、少し居心地が悪いような、それでいて決して不快ではない不思議な感情を呼び起こした。
いつの間にか周囲は開けており、湿気を含んだ風が吹く。斜面を登りきってなんとか息を整えてから、管理人様は再び私の手をとった。
《たぶんここだ、教会。…入るよ》
「はい」
足を進めると視界が全体的に少し暗くなる。日光が遮られたためだろう。全身に突き刺さる這うような視線に知らず息を呑む。早くなる鼓動を沈めるようにゆっくり、ゆっくり呼吸を繰り返す。あちこちの物陰から感じる気配に、ここには何匹もの蛇が潜んでいるのだと確信した。
【まあ…来てくださったのですね、愛しい貴方様…】
脳に直接響くような声の主が、ぬろりと身体を引きずって近づいてくる。窓からの光を受けて海のように輝く水色の鱗は三日前の蛇に相違なく、しかしその体躯は明らかに巨大化していた。私の目の前で動きを止めたそれは、管理人様であれば一息に呑みこんでしまうだろう。
【そちらの方々はお土産?それとも仲人というものかしら?いいえ、今はどうでもいいですね。さあ、こちらへ…】
腰が引き寄せられる。冷たくてツルツルしたものが頬に触れ、そのままシャツの中にもぐりこもうとする。
《ムルソー》
管理人様の呼び声に視線をずらす。大蛇の体に押し潰されそうになりながらも、彼は未だに私の手を離してはいなかった。少しだけまごついたような沈黙が挟まる。
《私たちの黄金の枝集め、これからも手伝ってくれないか?》
明瞭な指示というよりかは要請に近いそれに、私は反射的にうなずいた。そしてそのための行動を選択する。
「断る。私はあなたとの婚姻や性行為に同意した記憶はなく、そもそも特別な接点をもったこともない」
蛇たちがざわめき、目の前の水色の鱗から殺気が吹き上がった。
【なん…なんで…!?貴方様は私を助けてくださったじゃあありませんか!?それにお見送りまでして…!全部嘘だったのですか!?私を弄んだと!?】
そんな気すらなかったと言葉を紡ぐ間もなく、大蛇の顎ががぱりと開く。
【ふざけるな!!許さない、許さない、憎い、憎い憎い憎い憎い────!
イイダロウ、クッテヤル!!!】
《良秀!》
液体のシルエットが飛び散る。悲鳴。蛇たちを高速でなにかが切りつけていく。
《ムルソー、私が合図したらカポーテのEGOを使うんだ。かなり精神を削ることになるけど》
「それが指示でしたら、従います」
《うん。…きみならできるよ》
数をかぞえる。強く繋いだ手から伝わる鼓動をかぞえる。目を閉じる。彼の「声」を聞き逃さないように。
《……ムルソー!》
視界を開く。掴みとるイメージは灼熱の雄牛。胸のうちすら灼き尽くす炎!
世界がくっきりとする。切り裂かれた蛇たちの中心で包丁を拭く、ミートパイ屋の人格を被った良秀。その視線の先の大蛇は未だに激しく吼えたてていた。
「……停止」
ルーティンの如く決まった文言を口にする。幻想体の力をより引き出すために。あるいは己が呑まれぬように。熱された鎖が大蛇を拘束する。
「────逃れられない」
疾走。燃え上がる右腕を強く大蛇に打ちつける。打ち上がった大蛇は、悲鳴をあげて殴打された箇所から燃え落ち灰になっていった。それを見届けた瞬間EGOが解除され、右腕には火傷と感じられるほどの熱が残る。
《ムルソー、無理をさせてごめん》
「指示でした、ので」
《…うん。やり遂げてくれてありがとう》
少しでも冷やせればいいんだけど、と右手が彼の文字盤に添えられる。ようやくはっきり見ることができた時計に自分の熱が移っていく事実に、少しだけ呼吸が乱れた。
《良秀も付き合ってくれてありがとう》
「火」
《はい、仰せの通りに》
空いてる手で器用にライターを操り、良秀のタバコに火が灯される。煙は廃墟と化した教会の天井に吸いこまれていった。
《あっっっつ……》
「真夏突入直前の時期にカポーテEGOなんてそりゃ暑いって」
「熱中症の危険を避けるためにも、定期的な塩分と水分の摂取を推奨する」
《どうしよう、私口ない》
「そもそもどうして蛇に炎だと思ったんですか?特別相性がいいイメージってないんですけど」
《うーん…なんとなく?なんか、この蛇には炎だな〜ってイメージがきて》
「出たな、謎のスピリチュアル直感」
「まあこれで助けられてるから文句のつけようないのよね〜」