虚勢の前足
空の高くなるこの季節の夜風は、時に凍えそうな程に冷たくなる。今夜はそういった夜だった。それなのに寝台から最も離れている窓は完全に開け放されているのだから、寒冷に弱い筈のアイツの考えることは分からない。
羽毛のように柔らかい寝台の上、豹は両の足を折り畳んで―― いわゆる香箱座り―― その男が訪れてくるのをひたすらに待っている。風が吹く音が鳴った途端、急激に辺りが冷え込むのはご愛嬌だろう。こうして寝台を温めるのは豹に課せられた“仕事”であり、何より胴体の上に彼のコートを被せられてうかうかと動けないでいる。チラリと見えた模様は何の当て付けか己の獣体と同じソレだった。スン。と僅かに鼻を鳴らせば上から下から、寝台の主である彼の匂いが強烈なまでに脳を刺激する。葉巻の匂いの奥にはいっそ艶めかしいウッド調の匂いが潜む。その匂いに違和感を覚えてはあぁ香水が変わったのかと合点が行く己に気が付いてほんのり耳縁が熱を帯びた。
遠くから聞こえていたシャワーの音がピタリと止んだ。こうなっては彼が訪ねてくるまでに時間はかからない。のそ、と寝台に頭を預けて目をつむる。
「戻ったぞ。……何だ、先に寝たのか?」
耳馴染みの良いテノールが鼓膜を揺らす。そこからの反応はない。ひたひたとこちらへ近付いてくる足音はやがて小さく寝台をきしませる。いつの間やら胴体にかけられたコートは取り払われていて、おそらくは声の主が自身へかけ直したのだろう。
緩い圧感が両耳の間、頭頂に当たる所を静かに往復する。肉厚で決して柔らかいとは言えない指の腹、掌、それらがどれだけ己の理性を剥ぎ取るかこの男はよく知っている。音を鳴らすまいと喉に力が入る。腹部の下へ隠した前足の先がキュッと丸まった。息が詰まって仕方がない。
圧感は次第に耳の裏、目の下縁付近、首元から背、そして喉元へと移動していく。極僅に鳴る毛と皮膚の擦れる音は静謐の中では騒がしいほどによく聞こえた。そうして軽く背を叩かれたかと思うと、腹部と背の境目辺りに何かが埋まって、間もなくソワソワとこそばゆい刺激が背筋から脳へと伝った。思わず全身の毛が逆立って、忙しなく耳が動く。
「クハハ、やっぱり起きてんじゃねェか」
乾いた笑い声。誤魔化しようはない。ゆるゆると閉じた目蓋を持ち上げていく。体を持ち上げてやや後ろを覗き込んで見れば、至極愉悦そうな表情を浮かべる男が目に入った。コートはやはり彼の元に移動していて、袖を通されることなく肩に鎮座していた。どうしていつもこうも出し抜かれてしまうのか、こんな男に惚れてしまったのか。己でも全くの疑問である。しばらくそうして男の顔を恨めしく眺めていれば、視界いっぱいのバスローブと肌色が広がって、不意に両頬辺りを包まれる。目線だけを寄越したその先で、月光に照る双眸が二つの月を浮かべたように思えた。じんわり顔周りが熱くて、鼓動に至っては脳が拍動しているのかと勘違いそうになるほどに煩い。
「……何だ」
「もう少しだけ味わわせろ」
ゆったりとした動きで彼の鼻先が頭頂に密着する。深く息を吸う音を聞いたのを契機とばかりに己もこっそりと深く呼吸をしてみる。葉巻の匂いも、ウッド調の香水の匂いも、ましてや散々嗅ぎなれた以前までの香水の匂いも、全くと言っていいほどしない。殆ど無臭で、しかしそれでも正真正銘、本当の彼の匂いはどのアルコールよりも己を酩酊させる。身体の芯が熱を帯びると同時にくらりと目の前が歪む。緩やかに理性を剥ぎ取られ、本当に酷く酔ってしまったような心地だ。
気の向くままに、いつから気付いていたのか問いただせば乾いた笑い声が返る。体勢は依然変わらないままだった。
「最初から、といったらどうする。動物系は意識を失えば能力が解除されるからな。例え眠りでも同じだろ」
「……」
「……。図星か?」
正しくその通りだ。返答の言葉がひとつも見当たらない。再度彼の匂いを肺に落とし込んでから人の姿へ戻り、寝台に横たわりなおす。
「おい」
「今度は何だ」
「どういうつもりだ。俺は人に戻れと言った覚えはないが」
「決まっているだろう」
見下ろすようにして己の様子を眺めていたバスローブの腰紐を解き引いて、己へと引き寄せる。己の直肌と重なり合うはだけた胸元はじっとりとした湿度を持ち、湯浴み直後なのもあってか熱いくらいの熱を伝播してくる。己の胸元へ顔を寄せる形になった彼の肩上から腕を回せば、表情など見なくても彼が事態を飲み込めていないのがよく分かった。
「どうせ共寝するのなら直接肌を合わせた方が温かい」
それらしいことを述べながら回した腕の力を強めればそれ以上の反応は返ってこない。己が腕に捕らわれる鰐の匂いは自然と鼻を突き刺し、心臓は変わらず煩いままで、どうか気付いてくれるなと願う一方で、先程まで酩酊しかけていたとは思えないほどに脳は冷静に凪いている。直に感じる彼の体温が伝播して己のそれと混じり合っているせいだろうか。
胸元にかかる息が生ぬるいのは、それはそれとして。
――なるほど、たまには虚勢を張ってみるものだな。
そんなことを思いながら、豹はただ満足気に目蓋を閉じた。