藍染少年と許嫁の声
藍染少年は平子を睨んだ。唇が震えている。ぱちり、と瞼がゆれた。
「真子さん」
不意に名前を呼ばれる。
ぼくのつまになってください。
藍染少年はそう言ったのだ。繋いだ手をぐっと引き寄せられて、体がぶつかりそうになり、平子はのけぞった。
「うお!」
バランスを崩した平子を、藍染少年は抱き留めようとした。
が、平子は足を動かして一歩下がり、「何やねんいきなり」と藍染少年の肩を押した。
平子からすれば、単にびっくりしただけだ。2人には大きな体格差がある。だが藍染少年はひどく傷ついた顔をし、一瞬のち、ぎしりと軋む音を立てて歯を食い縛った。
少年のまるくて大きな焦茶色のひとみを見ていると、平子の胸に、わりと素直な同情と、まだ血も流れていない子供の傷をいじくるのはやめにしよう、という冷静さが戻ってきた。
「あ、すまんな。驚いただけで、いやほんま、怪我とかしとらんか?」
「……」
藍染少年はこわばった顔をしたまま、何度かこくこくと頷いた。
「……好きな人が見つかったから婚約を破棄したいと、休日に、両親に会いにきたのですか?」
藍染少年は見た目や物言いとは反対に、ぞんがいに強情なのだ。あまりわがままを言わない代わりに一度言い出したらちょっとやそっとの説得では首を縦に振らないのである。
さっきだって平子を家まで送ると言って聞かなかったし、手を繋いで歩くといって譲らなかったのだ。
「死神なるんにそんな事考えた事もなかったわァ…あーあんな、そーすけ」
「はい」
平子の答えを待つ藍染少年のまなざしは真剣だった。こんな目を向けられてしまっては、「かわいいやっちゃな」とからかうことも、「実は女が好きやねん。だから結婚できん!」と笑い飛ばすことも難しい。
平子は意を決し、すこしかがみこんで藍染少年と視線を合わせた。
「俺とお前の婚約ってのは親同士が言うとるただの口約束なんや。口約束ってわかるか?俺達が嫌ならせんでええ、っちゅーことや。本気やないんや」
「口約束……」
「おう、そーすけは自分のモンになると思ってたんが無くなるのが嫌やなって、だから引き止めたいと思っとるんや。それは俺を好きやからとちゃうねん」
「…」
藍染少年はうつむいて唇を嚙み、やがてゆるゆると顔を上げた。
平子は自分より低いところにある藍染少年の顔を覗きこんだ。藍染少年は頑固で強情だが、決して聞かん坊ではない。
平子にじっと見られているのを意識しているのか、藍染少年はぱっと目をそらした。
「ぼくは…死神なんて危険な仕事をさせたくない。あなたを失いたくないから。藍染家を継ぎ、家とあなたを守りたいと思っています」
絞り出すような声だった。
「お」
「でも、真子さんがぼくの妻になる事が嫌だというなら、意味のないことですね」
「……?いや、せやから」
「真子さんが破棄したいのなら、かまいません」
藍染少年はそう告げたあと、唇をきゅっと結び、ゆっくりと瞬いた。今にも泣き出してしまいそうな瞳は、フウと深呼吸した次の瞬間には正常に戻っていた。藍染少年は目をそらさない。
その目に涙はないけれど、平子は自分のためにつくられた美しいガラス細工を見るような気持ちで、少年をじっと見返した。
「俺のこと、そう思ってくれてありがとうな」
思わずそう言ってしまった。
「はい」
藍染少年は素直に頷いて、そっと瞼を伏せた。長い睫毛が震えて、そうしてゆっくりと、本当にゆっくりと再び平子の手を取った。
「送ります。家まで、送らせてください」
平子は頷く。
「逢引きやな」
藍染少年は目を開きまじまじと平子を見つめてから、「真子さんのそういうところ、嫌いです」と微笑んだ。
数十年後、再会した藍染の印象は、逆撫と相対するときに似た『厄介さ』だった。
「こんにちわ、平子四席。藍染惣右介です」
春の日差しのように暖かい微笑みは、2人がかつて幼い頃引き合わされ、許嫁であったことを否定していた。
─── なんやちょっと老けたな? 図体ばっかりでかくなりおって。─── 逆撫、なんやねん。コイツは惣右介や…─── 逆撫!
平子は藍染の顔を見上げる。
藍染の立ち居振る舞いは堂々としたものに変化しており、重ねた月日を感じさせる静穏な美しさがある。
藍染がさらに微笑みを深めて、平子は密かに、動揺した。