薬を盛られた尊氏×直義
足袋が粘質のある濡れたものを踏んだ。それでも、直義は前に進む。
よく知った場所にいるはずなのに、知らない場所に突然放り込まれたような底のない不安が胸をついた。獰猛な獣が潜むと知りながら、洞の奥にむざむざと足を踏み入れている軽挙を犯している。そんな、罰当たりな錯覚をする。
今しがた後にした見慣れた兄の私室には、大きな袋があった。自業自得の女の死体と罪のない寵童の哀れな遺体たちがはいっているのだろう。表情をひとつかえずに黙々とそれを片付ける——表沙汰にできないとはいえ執事の仕事でもあるまいに——師直たちに声もかけずに、目線だけ向けて通り過ぎてきた。
慣れているはずの血のにおいが、不快感をもって鼻の奥にこびりつく。
そして、すぐにそれは上書きされる。不快だった鉄錆くささを凌ぐ、けぶるような猛々しい雄のにおいが直義を圧倒した。
尊氏の私室の奥にある、寝室の戸を後ろ手でぴしゃりと閉めた直義は、何も言えず、ただ立ち尽くしていた。兄を案じて、兄のためにここにいるのは確かだった。だが、今はなにをいおうと、この心持ちでは空虚になる気がする。直義は、怯えていた。誰よりも敬愛し、何よりも大切な、兄に。
畳敷の暗い部屋の奥、黒い陰がうずくまっている。影が上下するのにあわせて、荒い息遣いが耳をさす。尊氏の状態をおもえば痛ましさが先にくるはずなのに、あろうことか直義は、いつにない喘鳴をする兄から、苦しげというよりは、獲物に舌舐めずりするようなおぞましい熱を真っ先に感じてしまい、背筋を凍えさせた。
決然とした覚悟を抱え、来たつもりだった。だが、直義は馬鹿みたいに棒立ちになって、身を竦ませている。
内密の事態だと緊急で師直に呼ばれたのは一刻前のこと。
あろうことか夜を共にする側室に酒に媚薬と言う名の興奮剤を盛られ、手のつけられない状態に陥った、と。
得体の知れない薬は男の欲望を際限なく煽るものであるが、同時に肉体の制御も奪った。
尊氏は一般人からは逸脱した屈強な身体の持ち主である。なにもかも箍を失った尊氏は、狂おしい熱に苛まれその解放を求めて人肌を恋しがっても、加減が出来ないせいで閨の相手をたちまちのうちに殺してしまう。尊氏の閨の相手を務めるのは、ただの女と無力な少年だ。兄の膂力に耐えられずに押しつぶされる。
そして、どれほど体内に渦巻く苦熱を鎮めたくとも、欲を放てずにいる。
直義様が相手ならば、尊氏様は理性をかき集めて渾身の力加減を可能とするでしょう。そうして、吐精が可能になるでしょう。
しかし、直義様が無理だというのならば、尊氏様の薬が抜けるまで何人も犠牲にしながら生贄を差し出すか、あるいは一人で苦しみを耐え抜いていかなければなりません。
そう、常と変わらぬ鉄面皮で告げられた。
人を抱きながら殺し、殺した人間を狂ったように抱く悍ましい空想の中の兄の姿にぞっとして、直義は一も二もなく師直の提案にうなずいた。
兄弟で身を交える倫理と、戦場でもない場所で人が殺される倫理なら、よほど後者のほうが重い。
自分が身を差し出せば、兄にいらぬ血を流させないですむ。苦痛から助けることができる。
直義は、苦しむ尊氏を救えるのならばなんでもやらなければならない。なんだって、してさしあげたい。
もはや自分の中にある常識や節度など頭から抜け落ち、なりふり構っていられなかった。
「あにうえ」
舌たらずに震えた声。幼子のころのほうが、いっそましな舌遣いのはずだ。
黒い陰が、蠢く。無数の蔦の幻影を見る。直義を凝視する無数の眼球の幻影を見る。骨ばった無形の怪物の顎の幻影を見る。異形の顔相が連なる幻影を見る。
そして、直義は兄をみつめる。
「直義」
緑色のうつくしい輝きに、射抜かれる。
暗闇の中で、欲と熱に渦巻きながら爛々と輝いている。
闇の中においてなお黒い陰をおとす尊氏が、両のかいなを直義に向かってひろげた。
「おいで」
下知だ。
上部だけ優しさで装飾した、拒むことを許さない尊氏の下知を聞く。
直義は無言でそれに従った。
うずくまった兄の視線にあわせるために身を屈めると、恐る恐るとした兄の手が直義の肩にのびる。直義を決して傷つけまいとする、慎重な手つきだ。
直義はそれに無性に泣きたくなった。
切なさに駆り立てられて、自ら尊氏の胸の中にもぐりこんだ。尊氏に自らの身を差し出す未知の恐ろしさ以上に、自身が追い詰められていても直義への労りを捨てない兄が、いとしくてたまらなかった。