花の前で影を踏む
その子が現れた時、酒に酔って見た夢ならいいのにと少しだけ思ってしまった。
深く被った帽子と黒ぶちの眼鏡で人相を判りづらくしているその姿が、逆にボクには彼女の両親をありありと連想させたのだからあまりに皮肉と言うものだ。
だから藍染があの子の母親に気づいた時には、もうあの子ばかりを気にしている状況ではなかったのは幸いだったと思う。
もしも黒崎一護があそこに駆けつけていなかったら、あのほとんど霊圧を感じない体を脱ぎ捨ててでも彼女が駆け付けていたんじゃないだろうか。理由はわかるけど、本当に近づいてはいけない相手を教えられてはいなかったようだから。
ボクを父親だと誤認した件でも父親の事をなにも知らないのは明らかで、そしてそれがあの子の身を危なくするのも明らかで。それでもあの子の母親の選択をボクは否定することはできない。
そもそも尸魂界に来ること事態が想定外だったんだろうなと思うし。しかし、おそらく隠されていた子だろうにずいぶんとお転婆に育ったものだと笑ってしまう。母親からしたら笑い事ではないだろうけど。
「あの、話ってなんですか?」
「ああ、うん、別に大したことじゃないよ、多大な誤解があるみたいだなってだけでね?」
全てが落ち着いて帰るまで後数日、話があると呼んだ少女は明らかに目に不審の色を浮かべて現れた。それもそうだろう母親を捨てた男の可能性があるよく知らない死神に呼び出されたら誰だってこうなる。
それでも来てくれたのは四楓院夜一の執り成しがあったからだろう、随分と懐いている……というかあれは師匠のようなものなのかな、他にも鬼道なんかを教えられていたようだから複数いる先生の一人なのかもしれない。
「ボクのこと疑っていたでしょ?帰る前に弁明しておきたいなと思って」
「それ言う方が怪しく見えるなって思いません?」
「それ言われるとどうにもねえ……信じてもらう他ないというか」
「……父親やないって確信があるんですか?」
バカ正直に本当のことを話して君のお母さんとそういう関係になったことはないと口で言った所で信じてはくれないだろう。自分でも不埒な男の言い訳のように聞こえる自覚はある。
しかし確信を持っている父親のことを話すわけにもいかない。彼が五番隊の隊長をしていた時ですら憚られるのに、裏切ってあんなことをした後に「あの男が父親だよ」とは流石に言えない。彼女の母親としても不本意だろう。
「お母さんに聞いたら確実だと思うけど……」
「本当の父親の検討は?アタシはあんま思いつかないんですけど」
「うーん……わかったとしても、知らないほうがいいかもなぁ」
そう言って眼の前の女の子を見ると賑やかな印象だったのにびっくりするほど静かな雰囲気をまとっていて言葉に詰まる。そうして読めない表情で微笑む姿に、なにかひどく嫌な予感がした。
「それはアタシの父親が、あの大暴れしよった藍染惣右介って男やからですか?」
はっきり言って、この子を見くびっていたのだろう。他の旅禍の子たちと一緒でまだ幼くて、腹の中を探るようなことはそれほど得意ではないだろうと。彼の娘であるならばもう百年は生きているはずなのに。
それを考えても血というのは恐ろしいもので、あの両親の娘であるならこれくらいできたって不自然ではないと思わせてしまう。続く言葉を探るボクを待たずに続く声には過剰な感情がこもっておらず平坦だ。
「本当にアタシの父親やったらこんな風に態々言わんで知らん顔しとればいいし、父親の心当たりがないなら父親はわからんで済ませればええやないですか」
「……そうだね」
「それを知らん方がええなんて、言ったらあかんやつが父親やって言ってるようなもんや」
微笑む少女の真意はわからない。父親がわかってなにを思うのか、それも表情からは読み取れなかった。随分とコロコロ表情が変わるわかりやすい子だと思っていたけれど、これは考えを改めなければならないだろう。
「そんで今、一番父親やって言えない男は……あの藍染惣右介とか言う、えらいことやらかした男だけやろ?」
「君は、本当に……」
「どっちに似てます?」
そう言って微笑む姿は、父親の方によく似ていた。
さすがにそれを言う気にはなれずに困った顔をすると、金の睫毛に縁取られた瞳に罪悪感のような色が走った。まだまだそこは普通の女の子らしくて安心する。
目が合った後に少し目を泳がせた後にそろっと見上げてきた顔は父親の面影はほとんどなく。母親似の可愛い女の子が怒られないか心配している表情がありありと見てとれた。その様子がなんとも子供のようで少し笑いそうになってしまった。
「ま、楽しくない話はこれくらいにしてもう一つの用事の話をしようか」
「もう一つ?」
「そう、君にこれを……色々と特別だから大事にしてね?」
差し出された物を見て目を丸くするその姿は笑顔の裏で策を弄する両親のどちらとも異なるただの少女の顔で……もしかしたらこの子の本質はこっちなのかもしれない。
恐る恐るといった様子で差し出された浅打に指先で触れる。それでなにか起こるわけでもないけど、なにかの儀式のようなそれをボクはそっと見守った。
「アタシの、斬魄刀」
「まだ完全に君のものになったわけじゃないから、お母さんたちみたいに使えるようになるには時間がかかるけど」
「みんなみたいに……」
母親の名前も、他に誰がいるのかも話さなかったのに、ポロリと溢した言葉は迂闊と言ってもいいだろう。それでも少女の顔をした彼女にそれを指摘するほどボクは無粋ではなかった。
なにより、ボクの副官だった彼女が無事でいるかもしれないという僅かな安堵のためにカマをかけた事を告げるというのも気が引ける。
「この子の御礼に、京楽さんが一番知りたいことのヒントあげてもええですよ」
「ヒント?それでわかるかな」
「心当たりあるならわかるんやないですか?」
斬魄刀を抱きしめながら嬉しそうな顔をこちらに見せてそんなことを言ってきた。これだけで喜んで秘密にしておくと約束しただろう話をしてしまうのは少し心配になるな、と思いながら耳を傾ける。
「京楽さんって、黒髪に眼鏡の女の子が好きなん?」
ささやくようなその言葉に目を見開いたボクを見ていたずらっぽく笑ったあの子に、今度こそ参ったとばかりにボクは顔を覆った。