胡蝶
夢を見ていた。
「クルッポー!」
カーテンの隙間から入り込んだ朝の陽射しが瞼を擽り、起きるのが億劫だと身を捩っていれば呆れたような相棒の声。まだ少し眠い目を擦り、体を起こす。
「ハットリ……」
「ポー?」
喉に馴染む名前を呼べば、不思議そうな返事が返る。思わず口角を緩めれば更に首を傾げたハットリになんでもないと指を添わせた。する、と柔らかい羽の感触が心地よい。
嗚呼本当に情けないことだが。ここは何もかも変わらない日常なのだと、心の中で胸を撫で下ろす。
……夢を見ていた。
くるると喉を鳴らす目に眩しい純白を撫ぜながら、ベッドの中で流れていた情景を思い返す。知る顔がいるのに何もかもが異なった知らない世界、今思えばそりゃあ当然夢だと笑えるような孤独感。引き摺られて陰りそうになった思考を、所詮は夢でしかないのだと振り払った。
いつも通り朝の支度を整えて、最後にハットリを定位置に迎え入れる。学校へ向かう道すがら、電柱の元にはいくつかの見慣れた顔が立ち止まっていた。
「おはよう、相変わらず朝弱いわね」
「間に合わねェからっておれの能力を頼りにするんじゃないぞ」
「チャパパー!生徒会長が遅刻未遂常習犯だってそろそろ言っちゃいそうだぞ!」
「今更それァ~!最早、あ手遅れェ~!!噂は既に、よよいっ!学園中にィ~~!!」
「今日は一段と遅かったのう、いっそ集合場所をおぬしの家に変えるか?」
「ンなのお断りだカク!ケッ、出席日数足りねェ上に朝寝坊たァ随分なご身分じゃねーか」
喧しい声と共に飛び交う言葉の数々。早朝から頭へ響く大音量は毎度のこと、けれど不快ではない。あのような夢を見たからだろうか、自分が自分だと実感できる光景に酷く安堵した。
「……あ?おい、なんか顔色悪くねェか?」
不意に、ジャブラが心配を滲ませたように顔を覗き込んできた。常に喧嘩腰で突っかかってくる癖にこういう時ばかりは無駄に察しのいい男だ、と嘆息する。
「ハッ、朝からジャブラ、お前の顔を見ればそうもなる……それに加えて、ただでさえ夢見が悪かったんでな」
「んだとテメエこの化け猫!人が心配してやったってのに何だその態度は!?」
「耳元で喚くな野良犬」
ガルルル、と動物系二人分の唸り声にまた始まったと呆れ半分笑い半分の幼馴染。
……これでいい。こうしていつも通りのやり取りをしていれば、悪夢の記憶など薄れていくのだから。
昼飯時。別段約束しているわけでもないのだが、生徒会メンバーは普段から食堂ではなく生徒会室に集まり昼食を共にしている。
その輪の中にいつも居る金髪が、今日は見当たらない。
「……パウリーはいないのか、珍しいな」
「む、そういえばそうじゃな?様子でも見に行ってこようか」
ぽろ、と口から出たその言葉を受けてカクが立ち上がろうとするのを手振りで制止する。
「……いや、おれが行こう」
パウリーの教室を覗けば、机に突っ伏して眠っている目当ての姿があった。恐らくは昼休みに入る直前の授業で寝落ちしたのだろう、変わらないな此奴は。はァ、と溜め息を吐いて背中を揺すり起こす。
「おい、起きろ」
「んん……、ん?」
呻きとともに腕に伏せていた頭が上がり、ぼんやりとした目がおれを見上げている。ぱちりと一度瞬きをしたかと思えば次の瞬間には目一杯に見開かれた。
「…………、あ゛!?今、お前がいるってことは、休み時間で……おれそんな寝てた!?」
がたがたがたん、と立ち上がり椅子を鳴らす。想定通りの反応をした涎でも垂らしていそうな馬鹿面にニヤリと笑った。
「ああ。昼飯は持って来ているか?もうじき購買は売り切れる時間だが」
「あーッ!!ヤベェ、今日に限って!」
「廊下は走るんじゃねェぞ」
慌てて財布を引っ掴み、教室の扉へ急ぐ後ろ姿に散々言ってきた注意を投げかける。
「分かってるっつの!あ、起こしてくれてありがとうな、助かった!!!」
そう言い残し、案の定生徒会長である自分の忠告も聞かずにバタバタと走り去った足音を教室の中から聞き届けて、一々追いかけるのも面倒だとばかりに首を振った。
「ンマー、なんか嬉しそうだな」
やにわに後ろから声を掛けられ、肩を跳ねさせそうになる。随分と気を抜いていたらしい、素人の接近にすら気が付かなかった。
そんな動揺の素振りを見せないように振り返る。
「嬉しそう、ですか?アイスバーグ先生」
振り回されているんですよ、と先程までパウリーが寝ていた机をコツコツ爪で叩く。その仕草にアイスバーグは苦笑を返した。
「ああ。少なくとも、おれにはそう見えたな」
……嬉しい、そうか、嬉しいのか。
「そうでしょうか……いや、先生が言うなら、そうなんでしょうね」
「なんだ、いやに素直だな?」
普段より慇懃無礼の権化と称されることもある生徒の珍しい素直さに、からかいのない驚きが返された。教師がそれでいいのかと少し思えど、それがアイスバーグ先生らしいなとも思うのだ。
「今日だけですよ、これは」
一つの夢に踊らされて、外から見ても感情の揺れが分かる程に弱っていたとはな、と心の中で自嘲した。
日中は学校の授業に暴れる生徒の鎮圧。放課後には検査に見回り、校則違反の取り締まり。ぎゃいぎゃいと仲間内で騒ぎながらも、夢の中の雑用とは全く異なる目まぐるしくも慣れきった業務を終え、家に帰った辺りで完全に日が落ちる。
うとうとと肩で船を漕ぐハットリを彼のベッドに寝かせ、自分も同じく横たわる。今日は少しばかりおかしな言動をしてしまったが、明日になれば。新しい日が来れば、もうおれはいつも通りだと自分に言い聞かせ、シーツを被る。
ふ、と意識が暗闇に落ちて───
───夢を、見ていた。
目が覚めて、気が付く。
顔にかかる朝の日差しの位置、身体に纏わりつくシーツの肌触り、布団の硬さ。何もかも違う、違っていた。
分かっている。低血圧で普段よりもずっと回らない頭でだって弾き出せる簡単な答え。
夢だったのだ。
おれはこんなにも弱かっただろうか。
舌打ちが見慣れぬ部屋に響く。自分から発されたものだと気付くのに数瞬遅れ、そこでようやく苛立ちを自覚した。
手のひらで額を抑える、目元を覆う。
怪訝そうに、心配そうに首を傾げる相棒は傍にいない。
「は、はは、……所詮は、夢でしかない、か……」
かさついた笑い、ひとりぼっちの声が、誰もいない部屋に満ちた。