聖光の夢魔鏡にて
燦燦と太陽が照らす、光の世界。白磁の神殿に、香る花々。ここはまるで、すべての命あるものを祝福しているよう。
小鳥たちが優しくさえずり、七色の蝶がひらひらと舞う。
澄み渡る空気は心地よく、清らかな泉からは涼しげな水音が耳をくすぐるの。
ふわりと、私のまとった若草色のケープがいたずらな風をはらんで膨らむ。
きらめく自慢の三つ編みが翻る。そのまんま、空も飛べてしまいそう。
「わぁ……!」
思わず感嘆の声を上げる私を見て、精霊たちはくすくす笑っているみたいだった。
『ほら、こっちよ』
『さあ、おいで!』
『今日はね、みんなでお花の冠を作るんだからっ!』
思わず、「うん!」と返事をしてしまいそうになって、私は慌てて口をつぐんだ。
……いけない!今日は大事なお仕事があるの。
私が謝ると、精霊たちは少しだけ残念そうな顔をしたけれど、すぐに気を取り直してまた笑い出す。
『じゃあ、次は一緒に作ろうね?』
『きっと楽しいよ!』
「うん、また後でね」
そう言って手を振ると、精霊たちはきゃーっと声を上げてどこかへ行ってしまった。
ひとりになった私は、目の前に広がる光景を見つめて深呼吸する。
「今日もいい天気……」
なんて気持ちの良い日なんだろう。なんて素敵な場所なんだろう。
天魔様の守るこの世界。私はその庭を託された、光の乙女。それがどれだけ名誉なことか……。
だからこれは、ほんの小さな我がままなの。
こんなにも美しい世界で、たったひとつ足りないもの。それは……
あれ?おかしいな。足りないものなんてないはずなのに。……でも確かに、何かが欠けているような気がする。何だろ……?
僅かに感じた気がする心の隙間は、だけど次の瞬間にはもうなくなっていた。
そんなことより今はお仕事に集中しなくちゃ。だって私はこの庭を任されてるんだもん。しっかりしなくっちゃ。
そう自分に言い聞かせて、改めて気合いを入れるようにぐいっと背筋を伸ばす。
大丈夫。怖いものなんか、ここには何もない。
「よし、行こう!」
そして私は、いつものように歩き出したんだ。
かつんかつんと、大理石の床に靴音を響かせながら回廊を進む。
白く輝く石造りの壁に囲まれた空間は静謐な雰囲気に包まれていて、厳粛な気分になると同時に少し落ち着かない気持ちにもなる。
ここは神殿のなかでも限られた者しか立ち入ることが許されていない場所。汚れ一つない壁には天使様や女神様の姿が描かれたタペストリーがかけられ、足元の石畳にも精緻な文様が描かれてる。
天井からは陽光が差し込み、どこもかしこも真っ白で眩しいくらいのその通路を歩いて行った先。
まるで黒いインクが染みを作るように、捕らえられたその”来訪者”の姿はあった。
両腕に戒めの鎖を巻きつけられた、漆黒の衣の男性。いいえ、よく見ればその暗さは、彼の全身を覆う鎧の色だとわかる。黒曜石の輝きを放つ重厚感のある鎧兜。
鋭い棘の付いた悪魔の羽のような装飾は血のように紅く、彼が動くたびにぎちりと音を立てて軋む金属の音は、それだけで見る者の不安感を刺激するよう。
けれど一番印象的なのはその瞳だった。燃える炎よりもなお鮮やかな赤。
凶暴な意志さえ感じさせる光を帯びた双眼は、私を見ると一瞬だけ驚いたように見開かれたけど、すぐに警戒するように細められた。
彼は何も言わなかった。ただ黙って私を見据えるばかり。
「こんにちは、黒騎士……ルペウスさん、でしたか?」
どこで聞いたのだったかしら。神官様たちが話していたのかな。でも、私は彼の名前を知っていた。
何故かわからないけど、不思議とその名前を知っていることに違和感はなかった。むしろずっと前から知っているような懐かしい響きさえ感じる。
「言葉がわかる?あなたはどこから来たの?どうしてそんな恐ろしい姿をしているの?」
ゆっくりと、分かるように言葉を区切って話しかけてみる。怖がってはだめ。怯えていると思われてはいけないから。
だけど、私の問いかけに答えはなく。
代わりに彼は、ぞっとするほど冷たい声で言った。
「……何だ、お前は」
初めて聞く声なのに、なぜかとても聞き覚えのある気がする不思議な声色。低く響くその音が鼓膜を揺らすだけで、ぞくりとした感覚が背筋を走る。
ああ、やっぱりこの人は恐ろしく強い人なんだわ。私は直感的に理解した。この人に睨まれたら、きっと普通の人間はひとたまりもない。
だけど、ここで怯んではいられない。だって私はここを守るのが役目なんだから。
震えそうになる足に力を入れて、なんとかその場に踏み止まる。
「私は、この庭を任された光の乙女。天魔様の命で、あなたのお世話を任されたの」
「俺の……世話?」
怪しげに目をすがめる彼に、私は大きくうなずく。
「そうよ。安全が確認されるまで、色々とお話を聞かせてもらうわ。あなたが何者で、なぜここにいるのか。これからどうしたいと思っているのか」
「…………」
「あ、もちろん、その格好じゃあ不自由だろうから、身の回りのお世話もしてあげる。お食事も私が運んであげる。天魔様の許可もあるの。だから安心して、私は決してあなたを傷つけたりしない。約束するから――」
「お前が?俺に食事を?……ふっ、くっく……あっははは!」
突然、彼は大きな笑い声を上げた。心底おかしそうに肩を震わせ、愉快そうに口元を歪めている。
それはまるで悪魔のように禍々しく、けれど同時にひどく無邪気な子供のように楽しげな笑顔だった。
「な……!何がおかしいの!」
失礼しちゃう。
確かに私は光の乙女としてはまだ未熟だし、この庭のことだってまだまだ知らないことだらけ。
だけど、だからといって馬鹿にするなんて許せない! 怒りに任せて文句を言うと、ますます彼の機嫌は良くなったみたいで、けたたましいくらいの大声で笑った。
「ははははは!これは傑作だな、光の乙女様がこの俺に飯を食わせるだって?こいつはいい、なんて滑稽な話だ。くくく……」
何よ何よ、そんな風に笑うなんてひどいじゃない。私は真剣だったのに。
だけど彼の態度を見てると、だんだんと腹立たしさより恥ずかしさが勝ってきてしまう。
だって私は、まだこんなにも幼くて……。
あ、あれ?そんなはずはない。私はもう大人なのに。
こんなことでいちいち怒っていてはだめなのに……。
なんだか自分の感情がわからなくなって混乱する私を尻目に、彼はひとしきり笑って満足したらしい。ふうと息をつくと、今度は急に静かな口調になった。
「……だが、悪いが俺はお前の言うことを信用できない。俺にはやるべきことがあるんだ。こんなところで呑気に遊んでいる暇などない」
「遊ぶだなんて、私はただ……」
「それに、お前はさっきから妙なことを言うんだな。ここは天魔様の御庭だと?一体何を言っているんだ?」
「……え?」
その瞬間、目の前にいるのが見知らぬ男性ではなく、全く別の誰かに変わったような気がした。
黒騎士ではない、別の誰か。それは私のよく知る人のような気もしたけれど、思い出そうとすると霞がかかったようにぼんやりとする。
誰だったんだろう。でもその人が、私のよく知っているあの人だったらいいのに。
「あの男はどこだ?ここにはいないのか?」
「あの男って……?」
「天魔、ネイロス。俺は奴を討ちに来た。そしてこの世界を救う」
「天魔様を討つ!?そんな、どうして?」
彼の口から出てきた言葉は、到底信じられないものだった。
どうしてそんな恐ろしいことを考えたりするの?この美しい世界を壊そうだなんて、そんな恐ろしいこと。
その表情からは冗談を言ってる様子は見られない。それが余計に怖かった。
「お前は、天魔の配下なんだよな?」
「そ、そうよ。私は天魔様に仕える光の乙女。天魔様はこの世界の神様なの。絶対の存在。私は、天魔様の願いを叶えるためにここにいるの」
「ならば教えてくれ。そいつは今どこにいる?」
「わからない。私はずっとここで暮らしてきたけど、今まで一度も会ったことがないもの。でも、きっとどこかで私達を見守ってくださっているはずだわ」
そう、私達はいつも見守られている。だから寂しいことはないの。
だけど、彼は私の言葉を聞くなり鼻で笑った。
その嘲笑には侮蔑と憐れみが混じっているように思えて、私の心にちくりと棘が刺すような痛みを与える。
「……何が可笑しいの」
「哀れだと思っただけだ。お前は、本当に何も知らないんだな」
「何ですって」
「いや、お前だけじゃない。この国の誰もが真実を知らない。誰も彼もが騙されて踊らされている。天魔は、神なんかじゃない。あいつは、魔王だよ」
「ま、おう……?」
「ああ、そうだ。この世界に破滅をもたらす者。それを、俺は倒さなければならない。そのためには力がいるんだ。どんな犠牲を払っても……たとえ、この身が朽ち果てようとも!」
「……!」
彼が叫んだ刹那、ぶわりと風が巻き起こり、思わず腕で顔を覆ってしまう。
恐る恐る目を開けてみると、捕らわれた黒騎士の姿は消えていた。
代わりに、一人の青年が立っている。銀の髪に赤い瞳。背が高くてすらりとした体つきをした、とても綺麗な男の人。
「あ……」
私はその人の顔を見たことがあった。
だってこの人は、私が子供の頃からずっと憧れていた――
「さあ、行こう。イケロス」
その声を聞いた途端、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
身体中が熱くなり、呼吸が乱れ、頭がくらくらして立っていられない。
「あ、あ……あぁ……?」
「お前は、俺と一緒に来るんだ」
差し出された手を拒むこともできず、そのまま引き寄せられる。
彼の胸に抱かれるようにして頬を寄せると、甘い香りに包まれるような心地がした。
懐かしくて、愛しくて、切なくて、苦しい。胸が張り裂けそうなくらい痛くて、だけどもっと強く抱きしめて欲しいとも思うの。
この気持ちは何……?
初めて感じる感情なのに、なぜかすごく馴染みがある気がする。
まるで遠い昔にも、こんな風にこの人に抱き締められたことがあるみたいに。
「俺は、必ず勝つ。この手で、天魔を滅ぼすんだ」
「う……ん……うん……!」
彼の力強い宣言に、私は何度もうなずいた。彼のためなら何でもできる気がする。
だって、私はこの人のために生まれてきたのだから。この人のためだけに生きていくのだから。
だからお願い、私を連れて行って。あなたの行く場所へ。あなたと同じところへ行きたいの。
ずっと一緒にいたいの。そのためなら、なんだって……。
「あ……」
ふと我に返ると、私は彼の背中にしがみつくように手を回していた。
いけない、私ったら! 慌てて離れようとすると、彼は逆に私の腰を強く引き寄せる。
吐息を感じるほど近くに、彼の整った顔があった。
「大丈夫だ。心配するな」
「え……」
「俺が、お前を守ってやるから」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中にかかっていた霧のようなものが晴れていった。
同時に、私を支配していた不思議な感情もすうっと引いて、元の自分に戻っていく。
ああ、なんで忘れていたんだろう。
私は光の乙女なんかじゃない。このお庭も、精霊たちもすべて幻。
大切なのは、この人だけ――。
「……ルペウス、さん」
その名前を呼ぶのは、なぜだかとても気恥ずかしくて。
それでも勇気を出して口にすると、彼は少し驚いたように目を見開いた後、微笑んでくれた。
「ああ、そうだ。それでいい」
「あの……さっきはごめんなさい」
「さっき?」
「その……ご飯のこととか……」
「ははっ」
私の謝罪を聞いて、今度は心底おかしそうに笑う。そんな反応をされると、やっぱりちょっと悔しい。
「お前がご飯なんて作れるわけないだろう、イケロス。だって、いっつも目玉焼きでさえ焦がしてるじゃないか」
む、また失礼な言い方!いっつもそうなんだから。
「そんなの、昔の話でしょう?今はもう、ちゃんとお料理できるようになったんだもん。これからは毎日、私が美味しいもの作ってあげるね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
そう言って頭を撫でてくれるルペウスさんに、私は思いっきり甘えることにした。
だって、今日は記念日。
私が光の乙女じゃなくて、ただのイケロスになった日なんだもの。
ずっとずっと昔から、こうしてこの人と一緒にいることだけを夢見ていたの。
「ねぇ、ルペウスさん。じゃあ、今日のお夕飯は何を食べてみたい?なんでも言って」
「そうだなぁ……」
「私、頑張って作るから」
「それもいいけど……今は、お前が欲しいかな」
「……!」
そう言って見つめてくる瞳はとても情熱的で、私の心を甘く溶かすようだった。
だけどそれ以上に、心の奥にある欲望を引きずり出すような危険な魅力があって。
「おいで、イケロス」
低くて優しい声が耳元をくすぐる。誘われるようにして、そろりと腕を回すと力強く抱き寄せられた。
見上げる先には大好きな人の笑顔がある。
「好きだよ、イケロス。誰よりも愛してる」
「私も……大好き」
唇を重ねると、お互いの熱を分け合うような心地がした。
舌先が触れ合って、絡みついて、溶けてしまいそうになる。
このまま一つになれたらどんなに幸せだろう。
清らかな部屋の純白のシルクのような壁面が、私たちを祝福するように淡く輝いて見える。
天魔様はどうなったの?私は何者?そんな疑問すらも、今となっては遠い過去のことのようで。
私はルペウスさんに全てを委ねると、ゆっくりと目を閉じたの。
その手が、私の肌を優しく撫でて――
***
『ねえ、知ってる?お兄ちゃん』
『何を?』
『天魔さまのお城にはね、”ほうもつこ”があるんだって』
『へぇー!どんなのがあるんだろう。宝石とか、金貨とか、武器とか!』
『そう、きれいなものがたくさん。だけど、それはどれも偽物なんだって』
『偽物?』
『本物はそこには存在しなくて、あるのはただの夢だけ。天魔さまはいつも私たちに宝石みたいな夢を見せてくれるの。そして、目が覚めた時には忘れちゃうのよ』
『ふぅん、変なの。でも、どうしてそれがわかるのさ?みんな忘れちゃうのに』
『それは……えっと、なんでだろう?わからないや。うふふ、おかしいよね』
『なんだー、イケロスも知らないんじゃないか。やっぱり嘘なんだな』
『あ!ひどい、お兄ちゃん。わたし、ウソなんてつかないもん。ほんとうに、そういうふうに言われてるんだから!』
『はいはい、わかったよ。それより、早く行こうぜ。父さんと母さんに怒られるぞ。僕たちだけで勝手に遠くまで行ったりしたらダメだって言われただろ?』
『あっ、待ってよお兄ちゃあん――』
***
温かい吐息が髪をくすぐって、力強い胸板が頬に触れた。
何度も何度も名前を呼ばれながら口づけられ、頭がぼうっとして満たされていく。
ルペウスさんの指が私の体をなぞる……首筋から鎖骨、その下へと。
「あ、だめ……」
「嫌なのか?」
思わず拒むと彼は手を止め、私の顔を覗き込んできた。その瞳が寂しげに揺れているように見えて、胸がきゅっと締め付けられる。
ああ、違うの。そうじゃないの。
あなたに触れられたところが、まるで火がついたみたいに熱いから。だから……。
「お願い、もっと触ってほしいの」
「イケロス……」
彼は嬉しそうに微笑むと、再び私の体に触れた。今度は強く抱きしめられ、全身に彼の体温を感じる。
それだけで、私はもうどうにかなってしまいそうなくらい気持ちよくて。
「可愛い。イケロス、すごく綺麗だ」
「ああ……嬉しい……好き……大好き……」
「俺もだよ。愛してる」
耳元で囁かれる甘い言葉に、うっとりと酔いしれちゃった。
この幸せな時間が永遠に続けばいいと思う。ルペウスさんさえいれば他には何もいらない。
私は彼の背中に手を回してぎゅっとしがみついた。
「ずっと一緒にいようね……」
「ああ、もちろんだ」
「約束よ?私を一人にしない?私を置いていかない?」
「大丈夫だって」
「本当に本当?」
「心配性だなぁ、イケロスは」
「だってぇ、お兄ちゃんはいつも――」
最後まで言わせずに、ルペウスさんは私に深くキスをした。
そのまま、貪るような激しい動きで口腔内を犯される。舌の先を吸われて、歯列の裏をなぞるように舐められて。
ぞくぞくするような気持ちよさが背筋を走り抜ける。体の芯から蕩けてしまいそう。
ああ、私、今すっごく幸せ。
陽光の下、ふたつの影はひとつに溶け合う。
笑いを零しながらじゃれあうシルエットを、柔らかい光が優しく包み込んで。
そして、すべてが白く染まった。