練習①

練習①

スレ主

銃弾のような轟音を響かせ、雨粒が激しく降る。傘なんて、もう意味がない。バッグも制服も濡れてしまって、まるで脱水しなかった洗濯物のようだった。折り畳み傘というのも良くなかったのだろう。しかし、この横殴りの雨ならば、普通の傘でもあまり変わらなかったようにも思える。


夏のカンカン照りが鳴りを潜めたのは五分ほど前の話だった。入道雲の浮かぶ空は目も眩む青で、これから大雨が降るなんて予想もできなかった。


大粒の汗をかきながら通学路を一人で歩いていれば、段々天気は悪くなっていき、瞬く間に雨が降り始めた。


今日は寝坊をして、朝の天気予報なんて見ちゃいなかった。見ていればもっと何か対策できたかもしれないのに。ただ、その対策を直ぐ思い付かないのだから、未来は変えられなかったのかもしれない。


幸い、背負っているリュックは撥水加工が施されており、教材が濡れる心配はあまりない。制服も二日あれば乾くだろう。今日が金曜日で良かった。もし明日が平日なら、俺は濡れた制服で登校しなければならなかったのだから。まあ、それを揶揄う友人は俺には存在しないのだが。


更に酷くなっていく雨の中を足早に駆け抜ける。水を吸った運動靴が重い。踏み出すたびに足の隙間を水が抜けていく。生温い感覚に嫌気が差す。


家まであと十分。人っ子一人居ない住宅地の角を曲がる。ふと、この辺に公園があったなと思い出す。引っ越してから数ヶ月、すっかり慣れた通学路には小さな公園があった。晴れた日なら子どもたちが遊具を使ったり、ベンチに座ってゲームをしたり、思い思いに過ごしている。当たり前だが、こんな雨なのだから姿は見当たらない。


寂しそうにも見える遊具たちを横目に、公園の横を駆け抜ける。走っているのに徐々に冷えてくる身体に不安を抱きながら、視界不良の中足を動かす。


慣れ親しんだ道だからこそ分かる、いつも存在しない何かが、そこにあった。十数メートル先に人らしきものが倒れている。息も切れかけの中、それを見つけたものだから、俺の心臓は人生の中でも最高潮と言っていいほどに脈打った。


駆け寄って、倒れた人の手首に触れて脈を図る。酷く冷たい手だ。どれほど長く雨に打たれていたのだろう。


親指が感じる鼓動が、生きていることを伝えた。良かったと安穏して、改めて倒れている人を見た。


十代後半くらいの少女だ。腰まで届く黒い髪。身に付けているのは自分と同じ高校の制服で、胸元のリボンの色が自分と同じ学年だということを示している。



「大丈夫ですか?」



何度揺すっても、声も掛けても反応はない。生きていることが唯一の安心材料だった。


どうしようと、思考がぐるぐると回る。焦って上手く纏まらない頭の中でも、この人を見捨てるという選択肢はなかった。


取り敢えず調べてみれば何か分かるかもと、スマートフォンを取り出す。震える手で検索欄に打ち込む。寒さで悴んで上手く文字が打てない。


視界の端で何かが動く。思わず視線を向けると、少女の細い指がぴくりと動いていた。



「気が付きましたか?! あの────」



本人に判断を仰ごうと言葉を繋ごうとして、遮られる。彼女にそんな意思はなかったのかもしれない。それは、思考がそのまま口に出たように感じたから。



「……寒い、怖い。誰か、助けて」



篠突く雨の中でも、その声がはっきりと聞こえた。細くて、今にも千切れそうな糸のような音が鼓膜を揺さぶる。


僕は論理を投げ出して、彼女を抱えて走り出す。多分、この判断は間違っている。知らない人を、自分の家に担ぎ込む。しかも女の子。だけど、だけれど、この子を直ぐにでも温めなきゃいけない。助けなきゃいけない。そう思ってしまったら、止まらなかった。


抱える身体が、やけに軽い。まるで中身の入っていない、空っぽの箱のように。


水溜りを踏み、びしゃりと泥水が飛び散る。しかし、今はそんなことに構っている暇はない。


家に着くまでの数分が長い。早く、もっと早く。コンクリート造りの階段を駆け上がり、流れるように鍵を開ける。靴を脱ぎ捨てて、ベットに少女を寝かせた。このままじゃ、彼女は冷たいままだ。真っ暗な部屋に明かりを灯し、暖房を付ける。浴室からタオルを引っ張って濡れ鼠の少女を拭く。水をたっぷり含んだ制服は、温める上で邪魔になるだろう。無礼なのは承知の上で、彼女のブレザーのジャケットを剥ぐ。濡れたカッターシャツの水気を吸い取るように、第二第三のタオルを使う。できれば、制服全てを脱がしてしまいたいが、それは流石に駄目だろう。同性ならば兎も角、この子は女の子なのだから。


ある程度吹き終われば、次は毛布を探す。クローゼットの上部の棚に閉まった記憶を元に探していく。数秒もしない内にそれは見つかった。少し埃被っていたら悪いが、緊急時ということで許して欲しい。その他にもあれこれやって、気が付けば雨は止み、外は真っ暗になっていた。


色々やっている最中、俺自身はもう部屋着に着替えていた。制服は干してある。机とセットの椅子に座り、漸く腰を落ち着けたことで今の状況がいかに危険かを改めて理解する。少女から見れば知らない男の家に連れ込まれ、服を脱がされ、挙句の上に布団に寝かされているという奇々怪々な状態なのだ。俺が彼女だったら恐怖でしかない。


自身の考え無しな行動に後悔していると、背後で唸り声が聞こえた。目を覚ましたようだ。



「……ここ、は」

「……あの、えっと、俺の家です」



ゆっくりと身体を起こしながら、少女は辺りを見渡す。その顔からは困惑が感じ取れて、申し訳無さで胸が一杯になる。


俺は大きく息を吸い、吐いた。そして彼女の足元に向かって額を擦り付ける。所謂土下座の姿勢だ。


「誠に、申し訳ございませんでした!!!」


床がへこむんじゃないかというほどに力を入れ、暫く振りに大きな声を出した。その影響で、若干咳き込む。



「……えーと、頭上げて貰ってもいいかな」



少女の声に従い、頭を上げる。殴られても文句は言えない。九割誘拐犯なのだから当然だ。



「助けて、くれたんだよね? ありがとう」



彼女の口から出てきた言葉は意外なものだった。てっきり聞くに耐えない罵詈雑言が飛び出ると思っていた。



「なんでそんな顔をするのさ。君が助けてくれたんだろう、星川くん」

「……なんで、俺の名前」



少女は何故か俺の名前を知っていた。でも、俺は少女に見覚えがない。



「……まさか、ほんとに誰か分からないのか? 同じクラスだよな? 自惚れかもしれないが、私はかなり有名人だぞ?」



『マジで?』と信じられないような顔をして、少女は俺を見つめる。混乱する頭の中で、必死に記憶の引き出しを探る。長い黒髪、同じ学年、同じクラス。


一人、思い付く。学校で知らない人は居ないほどの有名人、才色兼備の令嬢様。付いた渾名は『輝夜姫』。



「やっと思い出してくれたか。君はつくづく他人に興味が無いんだな、星川 海くん」


藤ヶ枝 美月────それが、彼女の名前だった。

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