緑の指(上)
手袋を通して手に伝わる紙の皺を慎重に伸ばしていく。
最後の頁まで気を抜かずに紙片を伸ばしきれば
一冊の書物はかつての姿を取り戻していた。
高揚する気分を抑えつつ、修復したその子を輸送用のケースに
他の子と同じように収めて緩衝材を重ねて蓋をする。
一仕事を終えて額の汗を拭い、手袋を外す。
外気に晒されたその手は、新緑の色だった。
「緑の指」
キヴォトスにおける混血のサラダたちの多くにとって
誕生とは苦しみの始まりなのだと彼女は後に知った。
親の記憶を見て育まれる心と理性がサラダとしての本能と
多くの場合、致命的な矛盾を引き起こすのだという。
母を陵辱して産まれるという罪咎への自責と
母への奉仕(りょうじょく)を善行であると叫ぶ本能が
芽生えたばかりの心を支離滅裂に引き裂こうとするのだからさもありなん。
ましてや、彼女が産まれた瞬間に目にした光景は
息も絶え絶えの母と、粘液に塗れて朽ちるのを待つばかりの“義理の姉妹(しょもつ)”たちだったのだ。
赫たる怒りのままにこの災禍を引き起こした同胞とそれに嬲られていた元凶を古書館から追い出し、
古書館の入口にて初めて浴びる陽光の下で正気に返った少女は、
そこでようやく粘液を滴らせる緑の指を認識したのである。
背骨を氷柱に突き抜かれたような感覚と共に必死で古書館の扉を閉めて
それを背にずるずると崩れ落ちた彼女の裸体は、手以外は彼女の母と変わりなかった。
ただ、母の胎に入る前のように粘液を滴らせる手首から指先までが、
彼女が母のありとあらゆる物を陵辱して産まれた罪と、
未来永劫“姉妹”に触れてはならないのだという罰を、彼女へと突きつけていた。
気付けば自身の心境とは真逆に燦々と輝く太陽は傾き始め、彼女はのろのろと動き出した。
相も変わらず心象は最悪であるが、彼女は図書館の中にいた同胞を全て…そう、彼女の母親の中にいたものまで全て…叩きだしていた。
同胞が腹の中に住みつく限り、同胞に寄生された生徒は飢える事もなく、
体外に出た同胞に包まれれば寒さとも無縁とも言える、ある種の共生関係が強制的に構築される。
飢える事もなく寒さに震える事もなくただただ過剰な快楽を叩き込まれるそれが生徒にとって本当に良いのかはともかく、
今の母には飢えない為の食糧や飲み水、暖を取るための器具が必要なのだ。
同胞がトリニティ総合学園と呼ばれた学区を占拠して早数週間が経っている。
陥落に至るまでの苛烈な攻防でかつて栄華を極めた街並みは廃墟のようになって久しい。
何とか残っていた缶詰等の保存食に卓上コンロにガスボンベ、使い捨てのカイロ等をかき集めて彼女は図書館へ戻ってきた。
既に日は暮れかけ、晩秋の寒風にその身を竦ませながら図書館の扉を押し開ける。
母はもう起きているだろうか。出ていってはいないだろうか。
拒絶されるなら物だけ置いて出ていく事を考えて進むも、母の姿は見えない。
やがて大書庫に着くも姿はなく、どこへ行っただろうかと考えこむ耳に聞える物音。
母が姉妹たちを修復するのに使っていた作業場から響くその音に導かれるように足を進める。
そこに立てこもる事にしたのだろうか、声をかけようか迷いながらその扉をゆっくりと開ければ。
「え゛っ?」「へっ?」
一糸纏わぬ母が“姉妹たち”を治していた。
「「……へぇあぁぁぁぁぁっ!?」」
動揺した際の悲鳴は同じなのだなと、微妙な嬉しさと困惑が彼女の中に渦巻いていた。