笑顔の話
笑顔というものに、俺は縁がない。
もちろん見たことが無いというわけではない。一応、小学校から学校というものに通ってはいたが、長いこと山で暮らしていたせいか同世代の人間に対しては何一つ理解出来なかった。動物たちにはあまりない笑顔という動作。顔の筋肉の動き。喜びを表現するもの。一見いいものに思えるが、実際は全く違って見えた。
周りの人間が失敗する。笑う。
知らない他人が不幸になる。笑う。
拾った子どもに親熊だったものの皮を渡す。笑う。
何がそんなに面白いのか、人間はそういうふうに出来ているのか、それなら自分もそうなのか。ひどい拒否感があって、気付けば休日はまた山に戻っている。きっと一生自分はこのままなのだろうと、人のキモチを学ぶための漫画を捲りながら、そんなことを思っていた。人生を変える一通の手紙が来てもなお、俺のそんな冷めた気持ちは変わらなかった。
「我牙丸ってさ、そういえば全然笑ったとこ見たことない気がするんだけど、気のせい?」
チームZが二次選考へとコマを進め、次のステージに行く前に過酷なトレーニングが課される日々が皆を苦しめていたある日、成早はそんなことを口にした。
これからこの地獄の時間がまだしばらく続くことを知らなかった、初めの頃の出来事だった。
「そうか?自分じゃ全然わかんねーけど」
皆の表情をそこまで観察しているのか、それとも勘が鋭いのか。指摘されても特に表情を変えることなく生返事をする。腕組みをしてうーんと首を傾げている成早は、やっぱり見たことねえわと結論を出した。
「我牙丸」
「なんだ」
「お前はめっちゃいい奴だ」
ギョーザを手掴みする手が止まる。適当に聞き流しすぎてどこか言葉を聞き逃したのかと一瞬思考が止まって、それから何言ってんだコイツと言わんばかりに怪訝な顔になる。
「ギョーザならやらねえぞ」
「あ、それは後で勝手に取るけど…いやそうじゃなくてさ!」
コイツやっぱりまだ狙ってやがる。少し食器を成早から遠ざけておいた。
「我牙丸ってめっちゃいい奴なのに表情暗くてもったいねーって思うわけよ、俺は!せっかく出来た友達がさ、そのせいで他のやつから良く思われなかったら俺としては悲しいわけよ、わかる?」
「わからん」
「いやわかれよ!」
「そういう時は指差して笑うもんじゃないのか?」
今度は成早が固まる番だった。どうしてそんな顔をしてこっちを見てくるのか理解できない我牙丸は、今のうちにとギョーザを平らげておく。今日は一つも取られなかった。
満腹感に包まれていると、そんな我牙丸とは裏腹に、今まで聞いたことのない地を這うような声で成早が問いかけてきた。理由はわからないが、珍しく、怒っている。
「一応、聞いとくけど…その指差して笑うって何だよ。それ、俺だから言ってんのか?それともみんながそうだと思ってんのか?」
「ん?まあ今まで会ってきた奴らがみんなそんな感じだったしな。それが人間のフツーなんだろ?」
怒っていたかと思えば今度は驚いて、そして悲しい顔になった。俺と違ってコロコロ表情が変わるもんだなと我牙丸はぼんやり思いながら、自分の言葉が成早を悲しませた理由はわからないが少し申し訳ない気持ちになる。
「我牙丸さ、笑顔って嫌いか?」
問われて、嫌いだと答えると思った。思ったが、何故か口を開けど声は出なかった。ブルーロックに来る前なら即答出来たであろう問い掛けに、我牙丸は言葉を返せない。
笑顔を否定したら、その瞬間にチームZで戦ったあの熱も、歓喜の声も、全てが否定されるような気がして、ああそれは嫌だなと心から思う。
「俺さ、家族によく言うんだよ。『辛い時は笑っとけ、そしたら不幸も向こうから逃げてく!』って。うちビンボーだからさ、辛いことも多いけどそうやって笑って暮らすだけなら金もいらねーし、何よりハッピーだ」
辛い人間を笑うのではなく、辛い時にも笑い合う。
それは我牙丸にとっては初めて知ることで、しかしここに来た今となってはもうわかっていたことなのかもしれない。
「だから、俺は我牙丸にも笑顔でいてほしいなって思うよ。辛いこととかたくさんあるけどさ、結局は笑顔でいられるやつが最強なんだ。どんな不幸も裸足で逃げ出すぞ!」
「笑えよ我牙丸。不幸のクソ野郎に、最強の俺たちを見せてやろーぜ!」
そう言って腕組みをしてこちらに向けた成早の満面の笑みは、ここに来る前に見てきたあれらがただのハリボテで、醜くて、同列に語るのも嫌だと思わせるくらいに、我牙丸の心に響いた。相手の幸せを願う気持ちに触れるのは、一体いつ以来なのだろう。遠い遠い昔、もう思い出せないくらい、そんな時があった気がする。きっとあの頃は、本当に幸せだったのだろう。
「いいじゃん」
成早が満足げにまた笑った。
「俺たちの勝ちだな」
ざまあみろ不幸の野郎と勝利宣言する成早と友達になれてよかったと、心から思う。
もう会えなくなってしまった今でも、いつまでも変わらずに、そう思う。