空泳ぎ
ゴリラ夜中にふと、布団の中で気が付いた。
あ、空飛べるわ、と。
とんだ電波野郎だったのか自分、とか。どれだけ人生に絶望してたんだ、とかツッコミや自省も浮かぶが、それよりなにより「今まで見過ごしてきた事実」を確認しなければならない、という焦りの方が強かった。
代わり映えしない天井を見上げる。常夜灯の小さなオレンジの光に、急かされているように感じる。
布団から出た。パジャマ兼部屋着のジャージの上下にTシャツ、まあこれでいいや、と立ち上がり、カーテンを開けて掃き出し窓からベランダに出る。
サンダルを履かず、柵に一歩進んだ。よじ登って、柵を蹴って外へ飛び込む。
全身がゆっくりと沈んでいく。
両手で空を掻く。不格好な平泳ぎみたいだが、上半身は上向いた。けど腰から先が下がっていくので、バタバタと動かしてみる。がん、と爪先に何かが当たって痛い。一階の部屋の人の物干し竿か、アパートを囲む古いブロック塀か。
両手足の動きを平泳ぎのそれに統一して、水面に浮かぶイメージをする。慌てず焦らず、空気を掻く。体が軽くなり、じわじわと上昇していった。
裏の一戸建ての二階の窓、そして屋根の高さまで浮く。軒丸瓦に家紋があるけど、暗くてよく見えない。触ったら分かるか、と手を伸ばしたら、バランスが崩れた。危ねえ。
明日、明るくなってから見に行こう。挨拶くらいはしてるから、ばったり出くわしても怪しまれないと思うし。って言うか、他人の家の瓦とか気にしたことなかったなあ。
空気を掻く。ゆるりゆるりと、上昇していく。風は感じない。僅かな流れは、肌で知れる。
人は飛べない。
だけど泳げる。
水中を泳ぐように、空中も泳げる。
何故、今まで気付けなかったんだろう。馬鹿か自分は。
ふと思い立って、クロールに切り替えてみた。スピードが増す。バタ足強ぇな。ばたばたばた、と足を上下させていくと、腹をどこかの家のアンテナが掠めた。危ねえ。
空気を掻く。段々、触感がはっきりしてくる。
濡れない水、ひやりとしたなにかの中を、泳いでいる。呼吸は普通にできる。下を見れば、光が少ない住宅地の夜景が広がっている。まるでドローンの空撮映像だ。そうか自分は人間じゃなくてドローンだったのか、と考えて笑う。
なんでドローンがクロールで浮いて進めるんだよ。
ってか人は空中も泳げるんだって。なんで誰も教えてくれなかったんだよ。
よっ、と勢いをつけて体を裏返した。クロールから背泳ぎに変えて、夜空を見上げる。
満天の星空じゃない、雲が多い見映えのしない濃紺だった。灰色がまだらになったグラデーションで、お世辞にも見応えはない。夢なら満月と天の川くらいセットなんだろうな。
ありふれた空はつまらなかったので、ぐるん、と反転してクロールに戻る。
住宅地の光は青白くて、幹線道路はオレンジが目立って、信号の光はゴマ粒より小さい。車は少なくて、トラックの方が多いように思える。
空気は澄んでいるのに暗くて、薄墨か透明インクを溶かした水を連想した。
無闇に上昇するのも切りがねえ、ので今度は潜ろうと思った。平泳ぎの方がゆっくり沈めるので、切り替える。
こうして見ると、電線は網かトラップに近い。暗いと周囲に溶け込んで見えるので、要注意だ。
静まり返った建物は、なんだかぞっとする。人がいる筈なのに、光がない。起きてる人もいるだろうに、どの家のどの窓も真っ暗で、夜を映して沈んでいる。
幹線道路へ泳ぐ。また上向きクロールに変えて、ビルの屋上を目指す。
この頃になると、体がどんどん浮くようになってきた。座ったり立ったりが難しくなる。僅かな流れに煽られて、不安定になる。
貯水槽の梯子を両手で掴んで、どうにか落ち着く。けど下半身は浮いて流される。うーん、ドローンじゃなくて鯉のぼりだ。
行き交うトラックの窓から、運転手が見える。良かった、自分以外の人がいる。一人、二人、たくさん。
起きて、生きて、働いて。唄ったり喋ったり運転しながら動いている。
白っぽいヘッドライトと、赤やオレンジのテールランプ。路面の起伏やエンジンの震動でぶれ動く光。自分のように浮いて流れることのない力強さと安定感。
唐突に分かった。このままじゃダメだ、と。
貯水槽から離れ、下向きに空気を掻く。歩道ギリギリの空の底まで降下して、歩こうとして、浮きかける。
歩けない。
流される。
ちょっと前までの高揚感や呑気さは消失した。怖い。このままじゃ自分は浮き続けて、流され続ける。泳ぎ続けるのも限界がある。なんだって、人は空中を泳げると思ったんだ自分は!
思い出す。なんで人は空を飛べないんだ。引力、重力、体重、筋力、骨密度、空気抵抗、鳥は羽があってスーパーマッチョで骨が軽くて臓器が。
そうだ鳥は飛び続けるために飛行中に排泄も。
必死に考えていたら、体が落ちた。どす、と路上に打ち付けた肘と膝が痛くて、でも地上数十センチからで助かった。
自分の体は重かった。プールサイドに上がった時と同じように。
真夜中に裸足でアパートまで戻る。瓦礫や割れたガラスがない道路はありがたいけど、小石が痛い。足裏に食い込む度に、靴やサンダルの有り難みを知る。
見慣れた近所まで来ると、ほっとした。照明が灯っている窓や、微かに聞こえてくるTV音声や生活音、人影、塀の上を野良猫が走っていく。
自室のドアを開けようとして、ロックチェーンに妨げられた。やばい鍵は中だ。どうしよう。窓から出るとかなにやってんだ自分は。
隙間から見えた常夜灯のオレンジ色に、呆れられてる気がした。