穢れた血族
「んん…こんなもんか?ドフィなら分かってくれるだろ、たぶん」
実験棟から拝借してきた書き込みだらけの専門書にメモを挟み、いつの間にか随分と手に馴染んだ、美しい銀細工の万年筆の蓋を閉める。
ビルゲンワースや聖堂街上層、果ては悪夢から引き抜いてきた学術書やレポートの類が山と積まれた城の書庫の一角で、未だにあの“老いた赤子”に勝てないおれは、ここのところしばらく報告書の執筆に明け暮れていた。
ヤーナムの救いと狩りについて、人ならざる者たちの神秘について、そしておれたちに流れる血の病について記した報告書。世界政府の根幹にすら触れるだろうそれを、おれは海軍ではなく、兄に残すつもりでいる。ローを連れ出した頃のおれがそれを知ったら、きっとドジらなくともひっくり返れるに違いない。
だって、仕方がないのだ。
おれはもう、兄の見ていた世界を、この血と共に分たれた呪いを知っている。
もし、兄が父を狩ったあの日に戻れるのならば、今度はおれが父を狩るだろう。
文字通り“人でなし”のおれたちが生き抜くために。
獣には狩人が、狩人には遺志が必要なのだから。
ローを治す算段はついた。あとはおれが、あの老いた赤子を海に還すだけ。
夜が明けて街の惨状を知ったローが、おれを許すとは思えない。センゴクさんに連絡を取れるよう念のため電伝虫とメモを残しておくつもりだが、よりにもよって"病に侵された人々を虐殺した海兵"の縁者を頼る気にはならないだろう。
となれば、ローがこの辺鄙な街で取れる選択は、ファミリーへの定時報告用の電伝虫でドフィに一旦連絡を取ることくらいになってくる。
そして兄と合流できれば、きっともうそれきりだ。
人の持つ優しさを知るあいつは、もう世界を壊したいだなんて思ってはいない。珀鉛病さえ治ればオペオペに頼る必要もなくなるのだから、海賊団に留まる理由もない。
ローは、おれたちの居ないどこかで自由に生きていく。
兄は、ローではない誰かといつか、血の病を治す方法を見つけ出す。
おぞましい呪いを齎した人の夢と遺志とを記したこれが、兄と、兄にオペオペの実を与えられるだろう誰かの助けになればいい。
ひとつ伸びをして、本が出せそうなボリュームになってしまった報告書の束の一番下に、新しく書き上げたものを滑り込ませる。これでおれの大仕事もひとつ終わった。さてこれから、どうしようか。
「おっ、どうした?」
食堂に繋がる入り口へと声をかけると、現れた気配は焦ったように、途中でちょん切れた首の前に人差し指を立てた。
「はは~ん…"サイレント"!」
近くに他の気配が居ないことを確認して、防音壁を張ってやる。ありがたいことに、今回は差し入れがあるらしい。料理の匂いがしないことを不思議に思いながら、仕立ての良いドレスの裾を追って書庫へと入ってきた召使を見やる。見やって、おれはあの白い赤子が雷をぶん投げてきた時の次くらいには度肝を抜かれることになった。
「ちょっと待てよく持ち出せたな!!?」
得意げな首無しの彼女の後ろに佇む召使の腕には、離れたこの席からでも薄っすらと分かるほどに匂いたつ、血のワインのボトルがあった。
「いやありがてェけども!!それ故郷の連中が祝いの席で開けるレベルのやつ!!!」
椅子ごと後ろに倒れそうな勢いのおれを見て、向かいの席にふわりと腰かけた彼女が笑った気配がした。狼紋章のゴブレットに注がれた酒はもう、一海軍将校だったおれが逆立ちしてもお買い上げできないだろう香りを放っている。
「これに慣れちまったら、普通の血の酒は飲めなくなっちまいそうだな…。や、美味すぎるくらい美味いんだけども!!」
首の根元を傾げさせた彼女に慌てて付け加えると、テーブルの傍に控える召使が感無量といった風に首を垂れた。本日もカインハーストは平和である。
ああ、でも。
必要のなくなった防音壁を解除すると、積まれた報告書と転がった万年筆を眺めて物憂げな雰囲気を漂わせていた彼女が身じろいだ。
本当は、彼女も分かっているのだろう。
血族にあるまじき荒っぽい言葉で談笑をしようが、書庫の貴重な本を広げながら酒を飲もうが、咎める者はもう誰もいないのだ。
見聞色を広げ城の隅々まで音を拾っても、おれたちの他にただひとつの声すら聞こえはしなかったのだから。