私って、なに?
「はっ、はっ、はぁっ、はぁっ、はっ!」
水門の上。人から隠れられる場所に行きたくて、真っ先に思い浮かんだのがここだった。
ブレザーの中に隠す様に、左胸のところに突っ込んでいた右腕を、おそるおそる露わにする。自分の右手があるべき場所は、別の何かに変わっていた。
「は……ぁ、あ、あ………!」
見慣れた自分の腕じゃない。見飽きた自分の肌じゃない。
硬質で、無機質で、なのに生物的で、でも絶対に人間的じゃない。ヒトのそれとはかけ離れた、怪獣の腕。刺々しくて、禍々しくて、悍ましくて、何より恐ろしくて仕方なかった。
「違う、ちがう、私は、私は、わた、しは……!」
わかっていた事だった。いや、わかったつもりになっていただけだった。私は怪獣。ヒトの中にあって、ヒトではないもの。認めたくないのに、自分の体が嫌でも現実を叩きつけてくる。
「ゃ、ぁ、ぃやぁ……」
私はバケモノなんだと。街を壊す、あの怪獣達と、同じ存在なんだと。異形と化した私の腕が、これ以上無いくらい雄弁にそれを物語っていた。
「戻れ、戻れ、戻れ……!」
何度も何度も呟きながら、腕に力を込めたり、逆に思い切り脱力したりして、なんとか元に戻そうとする。
どうしていきなり腕が変わったのか、何をどうすれば元に戻るのか、そもそも元通りになるのか。何もわからないまま、何ひとつわからないまま、それでも必死に、ヒトの腕に戻そうとする。
「戻れ、戻れ、戻って、お願い、もどって、もどってよ、もどってってばぁっ……!!」
もし、もしもこのまま戻らないかったら。いや、それどころかこのまま身体の全部が怪獣になってしまうかもしれない。ヒトの形になれなくなって、完全にバケモノになってしまったら。もうヒトの中で生きることはできなくなる。
仲が拗れてしまったけれど、それで大切な両親。どうかしている私の親友であり続けてくれた鳴衣。突飛な出来事で関わり合いになったガウマ隊、ちせちゃん、暦さん、ガウマさん。そして────蓬君。みんなと共に、あの人と一緒に過ごせなくなる。そんなのは嫌なんだ。そう思うのに。右腕は何も変わらず異様な形のままだった。
「う、う、うぅぅぅーー!!」
こんな腕、無ければ。そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、気付けば私は、右腕を振り上げて、床に思い切り叩きつけていた。
「うぅーっ!はぁっ、はぁっ、ゔ、ぁあっ!」
大して痛みを感じなかった。頑丈な表皮に包まれた腕は、何かがぶつかったと、そんな硬い感触だけを伝えて来た。それがまた自分の異質さを示しているようで、耐えられなくて、がむしゃらに腕を叩きつける。何度も、何度も、何度も、何度も────!
「南さんっっ!!」
聞きたかった声が、聞いちゃいけない声が、耳に届いた。
「よもぎ、くん」
なんで。よりによって、君が。こんなところにいるの。
*****
「お願い、蓬君……見ないで……」
肩で息をする蓬君から腕を庇う様にして背中を向ける。
嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。こんな姿見られたくない。怪獣としての私なんて見て欲しくない。こんな悍ましい姿を見せたくない。嫌われる。こんなバケモノきっと蓬君は受け入れてなんてくれない。
蓬君がいつも向けて来ていた温かな想い、それが陰っていたら私はもう耐えられない。それを失うなんて耐えられない。怖がられたくない、嫌われたくない、そんな感情向けられたくない。そんなの実感したくない。想像するだけで、胸の辺りが引き締められて、捻り上げられているみたいに痛くなる。嫌だ、嫌だ、離れないと。蓬君から、離れないと。
離れるなんて嫌だ。近くにいて欲しい。一緒にいたい。いつだって優しくて、私の為に泣いてくれて、香乃の事に向き合う勇気をくれて、私の事を守ろうとしてくれて、怪獣な私を受け入れてくれて。ずっと、ずっと、助けてくれて。
自分の中の感情がなんなのか、やっとわかったのに。自分が欲しがっていたものが、私がいつも見ていたものが、感じていたものがやっとわかったのに。
これが"好き"なんだって、誰かを好きになる事なんだって、やっとわかったのに。
「だめ、だめなの、おねがい、こないで」
頭の中がぐちゃぐちゃで、自分が何を考えているのか、どうしたいのか、何もかもわからなくて、でもとにかく今の私を絶対に見られたくなくて。
微かな足音と一緒に、蓬君が近づいて来ているのがわかって、いやいやと首を振りながら必死に懇願する。けど、蓬君は止まってくれなかった。
「────大丈夫?」
「…………ぁ……え……?」
柔らかくて、暖かい両手が、私の右腕にそっと触れて来た。
「あんな、自分を傷付けるようなやり方は、ダメだよ。どうしたらいいかは、まだわからないけど…………一度落ち着いてから、どうしたらいいか、一緒に考えよう」
労わる様に、慰める様に、慈しむ様に。異形となった私の右手を、両手で優しく包んで来る。
「なん、で?」
「え?」
普段とあまり変わりがない、穏やかな声で語りかけてくる蓬君に、掠れた声で問いかける。
「わたっ、しはっ!こんな、ばけものなのにっ」
蓬君から伝わってきたのは、嫌悪でも恐怖でもなかった。ただ真っ直ぐに、私の事を慮って、心配してくれる、そんな感情だった。
「今まで街を壊してたあいつらと、同じなのに」
なんでそんな風に、私を前と変わらず見ていられるのか。わからなくて、声を荒げた。喉がひくつく。少し震えて響いた私の声は、酷く不恰好だった。
「こわくない、の……?」
「怖くないよ」
一切、躊躇いなく、迷う素ぶりすら見せず、蓬君はキッパリと言い切った。硬くなった表皮を、彼の両の手が撫でていく。優しくて、暖かい、体温と、情動が、伝わって来る。
「どうして……?どうして、そんな風に、思えるの……?」
「…………こう、自分の感情とかを、はっきり言葉にできるわけじゃないけど」
蹲る私に目線を合わせるように、蓬君は腰を下ろして座る。
「俺は。今までの南さんを……ヒトとして、ガウマ隊として街を守って来た、南夢芽さんを知ってるから、かな」
琥珀色の瞳が、半分伏せられた瞼に隠れる。これまでの事を思い返しているのかもしれない。そんな表情。
「確かに、南さんの体には、怪獣としての力とかが、あるみたいだけど……それでも、南さんは南さんだって、俺は思ってる。街を壊してきたような怪獣とは違う、ヒトとしての心を持ってる、そんな────俺にとって、大切な存在なんだ、って」
静かな、それでいて確かな想いが乗った声が、私の心の中へ響いてくる。忌々しい怪獣としての特性が、蓬君の心を直接、私に伝えてくる。
いつの間にか、荒れ狂って、ささくれ立っていた心が、少しずつ落ち着いて来ていた。
「ひっ、ぐっ……ゔっ、うぅ……!!」
その代わりに、どうしようもなく込み上げてくるものがあって。
「南さん……」
「うる、さい……!ちょっと、だまってっ……!」
ヒトの、南夢芽(わたし)のままだった左手で、蓬君の服にしがみついて。胸板に額を押し当てて、蓬君から顔を隠す。
「うっ、ぐっ、ゔっ、ううぅっ………!」
そこまでやって、とうとう堪えきれなくなって。目からぼろぼろと、大粒の雫がこぼれ落ちていった。
「うっ、あ゙っ、ああ゙あぁぁ……………!!」
みっともなく、呻き声のような嗚咽を溢しながら泣きじゃくる。そんな私に何も言わずに、蓬君はただ静かに寄り添ってくれた。