祈りを歌う

祈りを歌う


持ってきていたプレーヤーから流れるメロディに合わせ、遥か遠くに微かに見える星の瞬きに照らされながら、胸の前に持ったレコーダーへ歌詞を一文字ずつ吹き込むように歌う。少し甘さを含んだ低い歌声が雪を巻き上げる風に乗って、正面から彼を眺めている私すら置き去りにして夜空へ広がっていった。

風に撒かれる髪、伸ばされた長い指、パイロットスーツに覆われ細くしなやかなボディラインが浮かんだ身体。夜空の蒼と燃える朝日の赤が溶け合った瞳を細めて何かに焦がれるように歌うその姿は他の何にも代え難い美しさで、見ているだけで胸に穴が空いたように切なくなる。口が悪く常に人を拒むような気配を纏った普段の彼と、命を燃やすように歌う今の姿のギャップで頭がどうにかなりそうだ。


狂気でも良い 報われなくて良い

祈りを捧げよう

君を——


ハイトーンで少し苦しいのか、切なげに眉根を寄せながら絞り出される声。その表情は恋をしている人のそれにどこか似ていて、目を逸らせなくなる。こちらへ伸びた手を咄嗟に掴んでしまいたいのに、指先すら動かせないほど今の彼の姿に魅入られている。


心から、愛している


曲を締めくくる最後の一節に、胸が痛いくらいにどうしようもなく疼く自分がいた。


「……ほら、終わったぞ」

「え、あっ…ああ」

「何を惚けてるんだ…リクエストしたのは貴様だろうが」


プレーヤーからの音も止まり、数秒の静寂。その間にすっかりいつもの威圧的な仏頂面に戻った彼が気付くと目の前に立っていた。呆れたような彼から渡されたレコーダーの画面を見れば、しっかりと今の歌声が録音されている。後生大事にそれを抱えて立ち尽くしている私に「なんでわざわざ粗悪品を…」と愚痴るように溢す。


「本当にこんなので良いのか…?音質もクソもあったもんじゃないぞ」

「粗悪品なんて言わないでくれ。確かに音質やバランスの良さだけなら、公式に出ている音源の方が良い。だが折角聴くなら、私の為の歌が良い」

「……好きにしろ」


私の台詞に今更羞恥心が刺激されたのか、ぶっきらぼうに言ってそっぽを向いてしまった。年甲斐もない素振りも、こうやって見たのはいつぶりだろう。

プレーヤーをポケットに入れて、空いた両手で不機嫌そうな顔を挟み込んでそっとこちらへ向かせる。夜明けに似た瞳と視線が漸く絡んだ。


「兄さん」

「…何だ」


思ったよりも甘えたような声音で呼んでしまった私に、今度こそ目を合わせた彼が答える。吸い込まれそうな瞳はそっけない口調と反して穏やかに凪いでいて、直視された私の胸が高鳴る。血の気の薄い顔に触れた手が少しだけ熱い。

もっとスマートに、色んなことを言うつもりだったのに。久々に会った彼に正面からこうも愛を歌われてしまっては、最近板についてきた気障なフリも、これからの為に鍛えてきた平常心も形無しだ。


「ありがとう」

「……ラスティ?」


口から出せたのは、何の飾りっ気もない感謝の言葉だけだった。私の様子を変に思ったのか、怪訝な声で名前を呼ばれる。それすら嬉しくて、一瞬何を言えば良いのか分からなくなる。黙ってしまった私を本格的に訝しんだ兄が身を捩るが、それを抑え込むようにして何とか言葉を捻り出す。


「あなたの歌声が聴こえる限り…どこからだって、きっと帰れる」

「何だ、今生の別れでもあるまい」

「お互い、保証出来る明日なんかないだろう」

「…今日の貴様は一段とセンチメンタルだな」

「……」

「黙りか。ま、良いさ」


今くらい好きにしろ。その言葉に甘えるように、首筋へ鼻先を埋めるようにして顔を寄せた。

兄は普段、この拠点にはいない。

実質的な戦争指導者の座をミドル・フラットウェルへ譲り既に隠居している帥父サム・ドルマヤンと、その男娼リング・フレディ。普段は彼等の元に身を寄せ、時々惑星封鎖機構の強制封鎖措置を緩和させる為の懐柔策の一環で星系に名を轟かせる歌の貴公子として歌を歌う。そして時々フラットウェルの指示でACに乗り無茶な作戦へ投入されては、行く先々で奇跡を起こし必ず生還してくる。

解放戦線に身を寄せて間もない頃から、AC乗りにも関わらず兄は我々のいる拠点ではなくドルマヤンの隠居先での生活を命じられてきた。恐ろしいまでに見目の整った兄だ。入って間もなく帥父の側に潜り込んだことに対し下世話な噂は昔から絶えず、彼がそこでどう扱われながら生活しているのかは私も詳しくは分からない。ただ多忙さを抜きにしても同じ戦場にすら立てず、兄が拠点に来ていたと任務から帰って来てから仲間に聞くことが何度も続けば流石に事情は察しがついた。

要は戦力であると同時に人質なのだ、私は。ドルマヤンもフラットウェルも兄に何か危険を見出し、それ故に私と引き離して縛り付けている。

だから私と兄は、滅多に会うことはない。会えるのは兄がフラットウェルに呼ばれた日、私が任務を大急ぎで片付けて帰投出来た時だけ。それもどちらかが連れていかれるまで、1時間もあれば良い方だ。そして次に会えるタイミングが来るまで、また互いに為すべきことを与えられるままにこなし続ける日々。戦場に溢れている悲鳴と銃声ばかりが耳にこびりつき、次から次へとやってくる厄介ごとに脳が圧殺されて時間と共に兄の声が片隅へ流れていく。公開されている曲や過去のログを聴かなければ、こんなに大好きな筈の声すら思い出せなくなっていた。

だからフラットウェルから次に与えられる「仕事」について説明を受けてすぐに了承したし、仕事へ行く前に兄に会ったらやりたいことも決まっていた。


「それにしても、あなたの本気を初めて聴いた気がするな…。もっと早く頼んでおけば良かった」

「フン。滅多にないサービスだ、ありがたく思え。……だが、なんであの曲だったんだ」


吐息がくすぐったいのかまた身を捩る兄。少し低い体温を感じながら、投げられた疑問に「そうだなぁ」と返す。

「仕事」の話を受けてから、次に絶対兄に頼もうと思っていたこと。それは彼がこれまで歌ってきた曲のうちの1つを、間近で聴いて録音することだった。私が選んだのは人を励ますようなものではなく所謂ラブソングに類するもので、それを聞いた兄の珍しく困惑した表情は少しだけ愉快な気持ちになった。

私の為に本気で歌ってほしい、とは言わなかった。兄がこの星を愛していないことも、時折この灼けた空の向こうの、更にその果てを眩しそうに見ている時があることも分からないほど、私ももう子供ではない。この星を捨てて自由になろうとしている彼がこの星に固執し銃を取り続ける私をどれだけぞんざいに扱おうが、それを咎める気は最初から毛頭なかった。ただ兄の声をいつでも思い出せるようにしたかったから、形だけでも良いから「愛している」と彼の声で言われたかったから、その曲を歌ってほしいと頼んだだけだ。


「私が欲しいのは飛ぶ為の風じゃないからかな。帰ってくる為の道標、折れそうになった心にもう一度焚べる火が欲しかったんだ」


だから彼の歌を聴いた時、本当に嬉しかった。形だけでも構わなかった愛を、兄は正面から全霊で歌ってくれた。

彼に私は愛されている。その確信が、これから待ち受ける未来に少しだけ鬱屈していた心に火を点けてくれた。

声を忘れるくらい、彼の元に帰れなくても。

熱を忘れるくらい、心が磨耗し切っても。

この歌を聴く度、何度でも私は飛んでいける。

そう言う私の返事に、しかし兄は困ったように「止めておけ」と言った。


「私の歌は、貴様の道標になるには向いてない」

「そんなことは、」

「私には、誰も幸せに出来ない」

「……!」

「死にたくないなら…もっと、別の場所を目指せ」


そう言う兄の声は静かで、歌っている時と同じくらい真摯なものが籠っていた。彼は本気で言っている。そう理解せざるを得なくて、一気に何かが込み上げそうになるのを必死に飲み下した。

私の幸せは、あなたがいないと始まらない。そう言いたくても、言えない。これからルビコンの夜明けを拓くまで、私は彼を裏切り続けることになる。与えてくれたこれまでの愛に愛を返す為に、今の愛を裏切らなければならない。この銀河で一番幸せになってほしいのに、今の私は彼を裏切るばかりで幸せになんて出来ない。なのにあなたが私の帰る場所だなんて、言えるわけがない。

…それでも。


「それでも…愛している」


帰れなくても、想うことに嘘はない。

精一杯の誠実さで出せる答えに、兄は何も言わずに背中へ手を回した。

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