療養中のアド
暖かいベッドで眠っていたアドは騒ぎで目が覚めた。怒号、悲鳴、何かが破裂する音、何かが壊れる音、笑い声。至る所から聴こえてくる。
夜中だと思うが眠気はすぐに消え失せ、混乱する。眠りにつく直前まで、のどかな鳥の声や外で遊ぶ子供達の声がしていたのに。
清潔なはずの病院なのに、何かが焦げている匂いがした。
アドはベッドから下り、何が起こったのか確かめようと窓に近づく。カーテンを開けようとしたその時、病室の扉が勢いよく開かれた。驚いて振り向けば、そこには見知った看護婦のおねえちゃんがいた。
いつも優しい笑顔で話しかけてくれる看護婦だった。
大丈夫、きっと良くなるから、お父さんもすぐに迎えに来てくれるよ。そう言って笑っていた彼女の顔は、今は汗まみれで、息を荒くしている。
アドを見て少し表情を和らげたが、すぐに強張る。
荒々しい足音。1つじゃない、何人もの人間がドタドタと走ってくる様子が想像できた。
看護婦は話しかけようとしてきたアドを有無を言わさず抱えあげ、病室の隅にあったクローゼットの中へと押し込めた。抗議しようとする彼女の口を押さえ、グッと顔を近づける。
「声を上げちゃダメ。何があっても静かにしてるのよ」
看護婦はそう言ってアドの頭を撫で、最後にいつもの笑顔を向けてクローゼットの扉を閉めた。扉越しに音が聞こえる。
遠ざかる足音。看護婦が部屋を出た。
喚き声。扉に隔てられ何を言っているかわからない。足音。笑い声。怒声。何かが破裂する音。
アドはしゃがみ込む。
何かが破裂する音。2度、3度。
静寂。
また悲鳴。大きい音。何かが破裂する音。何かが破裂する音。悲鳴。悲鳴。悲鳴。笑い声。
複数の足音。遠ざかっていく。
体感30分以上、アドはクローゼットの中でしゃがみ込んでいた。真っ暗の中、聴覚が研ぎ澄まされる。少しの物音も聞き漏らさない。
ようやく静かになり、恐る恐る扉を開けた。
誰もいない。クローゼットから出て、部屋を出る。
そこは真っ赤な世界が広がっていた。
床や壁、天井にいたるまで赤い何かが飛び散っている。清潔だった廊下は赤黒く染まり、何人もの人達がそこで眠っていた。
今朝診断してくれた眼鏡の先生、怒ると怖い婦長さん、毎日挨拶する他の患者さん。そしてついさっきアドをクローゼットに押し込めた看護婦のお姉ちゃん。
みんな汚い廊下の上で眠っている。真っ白だったお洋服が、赤くなっている。
昔食卓に出た穴だらけのチーズのようになった看護婦のおねえちゃんを見つめていると、アドは夢を見ているような気持ちになった。
また足音がする。アドは息を詰まらせ、その場から逃げ出した。
病院から出ると、また真っ赤だった。燃え盛る炎が街を照らし、夜だというのに真昼間より明るかった。
船の上から眺めた時、お父さんが綺麗だろと言った港町なのに。炎と瓦礫で埋まっていた。
建物が無くなり、遠くの港がよく見える。見たことのない船が停まっているのが見えた。炎に照らされ、大きな黒い旗が浮かび上がる。大きな髑髏マークが描かれていた。お父さんのマークかと思った。
つまり、海賊だ。
笑い声が聞こえ、体が強張る。振り返れば、病院から誰かが出てきた。
何人もいる。みんな手に何かを持っている。
先頭の人はお父さんが持っていた物と、その後ろの人はベックさんが持っていた物と、その隣の人はヤソップさんが持っていた物と同じ物を持っている。
こちらに近づいてくる。
気づかれたらダメ。直感でそう思った。見つかれば病院の人達と同じ目に遭わされる。
近くの瓦礫に飛び込み、身を隠す。崩れた屋根の下に隙間があり、そこに入ることができた。
海賊達には気づかれてないようだが、こちらに近づいてくる。ガラスや何かの破片を踏みしめる音が響き、彼らが手に持ったものからカチャカチャと音が鳴る。少しでも奥へ、奥へと隙間に体を押し込んだ。
瓦礫の隙間から海賊達の足が見えた。
すぐそこまで来ている。
乾いた咳がかすかに聞こえた。
隣を見れば、子供がいた。
気がつかなかった。男の子。アドより年下に見える。この町に来る前に、お父さんが根拠地にした村にいた男の子と同じくらいの。
男の子は続けて咳き込む。かすれた小さな音だ。
海賊の足が止まる。
男の子の足が瓦礫に潰されていることに気づいた。頭からも血を流し、すがるような瞳がアドを捉えた。
咄嗟に男の子の口を手のひらで押さえた。
喋らないで。声を出さないで
海賊の足が目の前にある。何本もある。
必死に人差し指を唇に当て、静かにと訴えるが手のひらの中で男の子の口は動いている。助けを求めてるのはわかる。でも気づかれれば殺される。
血に染まった病院を思い出し、押さえる力が強くなった。
海賊の話し声がする。何を話しているかは、アドにはわからない。
男の子の向こうに、もう1人誰かが見えた。この子の父だろうか、兄だろうか、大人の人。すでに事切れているように見える。目を見開いて血を流している。
それと目が合った時、恐怖でアドの手が緩む。途端に男の子は呻き声を上げた。
海賊達の話し声が止んだ。
アドはすぐに男の子の口を再び押さえた。
両手で押さえ込む。
お願い。お願い。静かにして
声を上げないで。音を立てないで
力を込める。必死で押さえる。無我夢中で押さえる。
足音がする。海賊達が近づいてきている。
かがんで覗き込めば、アド達が見えるだろうすぐそこまで。
助けて、お父さん。
助けて、お姉ちゃん。
助けて、みんな、ルフィ──
「おい」
声がして、アドは気を失った。
「───めだ。病室にはいな───」
「連れ去────のか?」
「────見聞────どこに──」
「エレジ────お頭も──」
「海軍が────嵐も──」
「──にかく────追おう」
声が聞こえる。
誰かが話している。
瞼が重く開かない。
ぼんやりと覚醒しかけたが、疲労感に押し戻された。
雨の音で目が覚めた。
土砂降りだ。雨の音以外、何も聞こえない。
酷く寒い。自分の体が弱い事は自覚している。それを治すためにこの町に来た。この病院に来た。このベッドで寝ている。
ベッドじゃない。
冷たい瓦礫の中だと気づき、何があったか思い出す。
頭を起こして瓦礫の隙間から外を覗く。そこに、海賊の足はもう無かった。
ホッとして隣を見ると、そこには男の子の顔があった。
目を見開き、涙の跡が幾筋も残っていた。顔は真っ青で、苦しみに満ちた表情をしている。
呼吸は止まっていた。
間近で歳の近い男の子の苦しみ事切れた顔を見て、アドは体を震わせる。恐怖のまま口元を手で押さえ、そして気づいた。
この手で彼の口を押さえ込んでいたことを。
押さえていたのは本当に口だけだったのだろうか。必死で、力の限り押さえ込んだ手が、口だけでなく鼻も全て押さえてはいなかっただろうか。
途中で上げた呻き声は、瓦礫に足を潰された痛みか、それとも息ができずに上げた苦悶の声だったか。
アドは動かなくなった男の子と同じくらい青ざめる。見開かれた虚ろな目に、アドの姿が映っていた。
瓦礫の中から這い出し、外に出る。
大雨で火はほとんど消えているが、焦げた匂いと、血の匂いと、嗅いだこともないような異臭が全てを覆っていた。
酷い寒気がアドを襲う。
頭をガリガリとかきながら、破壊し尽くされた町を1人歩いている。
口から繰り返される謝罪の言葉。もはや呪文のように唱えているだけだ。
アドは裸足だった。瓦礫の上を歩けばガラスや破片で足を切る。
血が流れ、痛いはずなのに、それにすら気づかない。
ふらふらと向かうのは港。
海賊船はもういない。
どうすればいいのか、何をすればいいのかわからなかったアドは、ただ帰りたいという思いで満たされていた。
暖かい家に帰りたい。お姉ちゃんに会いたい。家族に会いたい。友達に会いたい。
お父さんは迎えに来てくれると約束した。いつもの優しい笑顔で、あの船で迎えに来てくれると約束した。
すがるような思いで港に着いた。
奇跡か。船が見えた。
あの形、あの旗、間違いない。赤髪海賊団だ。
遠いけれどわかる。自分の家だ。船尾から見たって、あの船がお父さんの船だって……
「え……?」
船尾?
どうして、後ろ姿なんだろう
どうして、離れていってるのだろう
待って。行かないで
私はここにいるよ。置いていかないで
お願い行かないで
私を捨てないで
父の名前を、家族の名前を叫ぼうと息を吸う。
しかし、出てきたのは酷い咳き込みだった。
体力が尽きた。
体の弱いアドはもう限界だった。度重なるストレスが、雨が体温を奪い、その体を地に伏せさせる。
息ができない。
頭に、瓦礫の下の男の子の顔が思い浮かんだ。
あぁ、そうか
これは罰だ。自分が助かるために、あの子を殺した自分への罰なんだ
自分をクローゼットに押し込めた看護婦の顔が続いて思い浮かぶ。他人を犠牲にして生き残ろうとした浅ましい自分への罰だ。
だから家族にも捨てられた。
咳の合間に笑いが漏れた。
膝をついてうずくまり、丸まった背中を震わせながら笑う。こんな時姉がいれば、優しく背中を叩いて助けてくれるのに。
荒廃した町の中、アドは1人で笑っている。
憎い。憎い。
海賊が憎い。
家族が憎い。
自分が憎い。
その笑い声も、雨の音に消されて聞こえなくなった。