産声

産声


臨月に入ったらまとまった休みをとる予定だった。その引き継ぎに必要なことは優先的に片付け、仕事を前倒しにしてこなし、何も憂うことなくその日を迎えるように六車は努めてきたはずだった。

四番隊から檜佐木の陣痛が始まったという報せが入ったのは、そんなある日のことである。定時の直前、明日分の確認作業をこなしていた時刻だったが久南を筆頭とする隊士は快く――というより半ば強制的に――動揺に固まった六車を送り出した。


四番隊舎の最奥、どこもかしこも白木で構成された病棟。ばたばたと隊士が忙しなく駆け回り、消毒液の匂いがどこからか漂ってきていた。湯を沸かしているのだろうか、細く甲高い音が扉の向こうから漏れてきている。

音が、気配が、匂いが、六車の心を逸らせていた。どくどくと煩い心臓の音を聞きながら長椅子から立ち上がりそこらを動き回る。行ったり来たり、座ってみたり立ってみたりとどうにも落ち着かない自分を別の棟から来た隊士が怯えたように見ている視線もどうでも良かった。

「……恐らくですが、難産だと思います」

先程ここまで六車を案内した隊士にそう言われた事実が余計に冷静さを奪っていく。だってまだ、予定日まで一月半以上あったはずだ。檜佐木の懐妊が分かってから何冊も読んだ本に書かれていた早産の二文字が渦を巻いている。

「………修兵………ッ」

縋るように名を呼んだ、その瞬間だった。

「何辛気臭い顔しとんねん」

背中に走った衝撃と、聞き慣れた友人の声。振り向けばそこにいたのは予想通り平子で、その数歩後ろから鳳橋がひょいと顔を覗かせた。

「さっきから四番隊の子が随分怯えてるよ。少し落ち着いて座ったら?拳西」

「真子、ローズ……」

へたり込むように長椅子へ腰を下ろした六車の両隣を自然に陣取り、二人はその横顔を見る。随分と憔悴した、彼らしからぬ顔だった。

「父親になる男が今からそんなになってちゃあかんやろ」

「わかってんだよ……でも落ち着けって方が無茶だろうが。まだ予定日まで日があったってのに」

出産は何が起きるかわからない。それは理解できている。だがそれを飲み込めるのかはまったく別の話だ。

「修兵くん、細いからね。元々そういう可能性があったんだろう?」

「ああ……。それに、俺の子だぞ。アイツは強い子だから平気だとか言ってたが、"混ざってる"以上確かなことなんて言えねえ」

――後悔なんてしませんよ。

――私は死にませんし。他ならぬ拳西さんとこの子を育てるんですから。

――だから拳西さんも、笑ってこの子を迎えてあげてくださいね。

そう言って笑った檜佐木の顔を思い出す。普通の死神とは程遠い在り方にさせられた己の血を引く子を宿して、それが未知の領域にあることを理解して、それでも大丈夫だと笑った歳下の妻の顔。

あの笑顔が見られなくなると思うと恐ろしかった。産まれてくる子がどんな姿をしているか、産声をあげてくれるのか――どちらも無事に息をしていてくれるのか。

「……こんな情けねぇ気持ちになるんなら」

家族を作ろうなんて思わなけりゃ、と、そう言おうとした六車を鳳橋と平子が厳しい声で咎めた。

「不安になるのは勝手だけれどね、これから来る分の幸福まで踏み躙ってどうするの」

「妙なところでお前は修兵と似とるな。大丈夫や拳西、お前の惚れた女とその子供はきっと強いで」

「………」

背に触れる二人分の温度は声と裏腹に優しかった。祈るように組んだ手に額をつけて、六車は目をきつく閉じる。

己の妻が強いことなどとうに知っている。恐怖を抱いていないはずはないだろうに、それでも前を向いて笑っていた。

その強さが報われないなんて嘘だ、と思う。

(修兵―――………)

ガリ、と音がする程強く唇を噛み締めた、その刹那。


病棟の全体に木霊するような産声が、響き渡った。


「…………っ、は」

ひゅ、と喉が鳴る。奥の扉が開き、転がるようにして虎徹が駆け出してきた。

「六車隊長。無事、双子の赤ちゃんが生まれましたよ」

「………!修兵、は、」

「無事ですよ。……お子さん達は身体が小さく産まれたので、暫くはこちらでお預かりすることになります。檜佐木副隊長には今もうお会いできますよ」

お会いになりますか、との言葉に恐る恐る頷き、緊張の余韻で未だに震える足を踏み出す。病室内のベッドで、檜佐木はぼうっと天井を見ていた。

「修兵」

「……拳西さん、」

汗ばんでいるのに青白い肌をするりと撫でると、力の抜けた笑顔を見せる。

「……よく、頑張った。ありがとうな」

「……ふふ、だから言ったでしょう?私も赤ちゃんも大丈夫、って」

可愛い子達でしたよ。

ふわりと花が綻んだように笑う檜佐木の手を取ると、弱い力で握り返される。

「ありがとう、修兵。ありがとう……ッ」

ほと、ほた、と手の上に頬を伝ったぬるい雫が落ちていく。

檜佐木の頬にも同じような雫が幾筋も伝っているのが見えて、六車はぼろぼろと泣きながらこの上なく幸せそうに笑った。

星の美しい、深夜の出来事である。

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