生きる痛み
「拳西さん、」
吉良と初めてと言える諍いの後、檜佐木は再び六車のところへ顔を出した。
顔を出したこと自体は諍いとは関係なく帰る前に六車の顔を見てから帰るのはもう日課だ。
「拳西さん、清拭の準備するから、少し待ってくださいね。」
「しゅ、う…」
「俺の怪我は大丈夫だって言ったでしょう?本当に、大丈夫ですから。そんな顔しないで。それに今は必要ないから手足の縛道、少しの間ですけど外しますね。」
「……っ、ん、」
今の六車は、自由を極端に制限されている。いつ正気を失うかわからないため手足の可動域をかなり制限されている。
身体そのものの回復状態も万全とは遠いことも相まって、ベッドから独りで起居するのも、それなりに難儀する。
それでも指の動きまでは制限されておらず正気の時に身体を起こしてしまいさえすれば食事や排泄は自力で可能なのは幸いだが、入浴はそうはいかない。
腕が上がらない、後ろに回りにくいから頭や背を洗えないし足の動きも制限されているからバランスも普段より悪く、その状態で無理に腕を動かそうとすると危ないのだ。
だから誰かが定期的に清拭を行ってやる必要がある。誰か、と言ってもそんな役目を檜佐木が他の者に任せるはずもなかった。
そしてこれが行われるのは、今のように、六車が暴れた後、力を使い果たして、正気だがぼんやりとしており、けれどもある意味力を使い果たしているから檜佐木が傍にいても暴れる心配がない、霊力を使い果たし凶暴性が外に出てきたくてもこれないような時だ。
その時だけが今の六車にとっては、縛道が外される短い時間だ。とはいっても結局朦朧気味の状態になり、手足を自由に動かす余力などない時だから、結局は六車にとっては、この時は意識はあって声は聞こえていても、赤子よろしく全てを檜佐木に委ねて世話をしてもらうしかない、情けなさばかりが刺激される時間だ。
六車の衣を脱がせた檜佐木は、穏やかな口調で話しかけながら丁寧に六車の身を清めていく。
ゾンビ化している間は触覚も鈍くなっているが、今は正気のため檜佐木が丁寧に触れれば、その丁寧な様子も温もりも、ちゃんと六車に伝わることを知っているから、檜佐木は丁寧に丁寧に、思いが伝わるように六車に触れ清める。そして何よりそこにある、六車自身の温もりを檜佐木も感じ取るように―――。
「背中、綺麗にするので向き変えますね」
普段正気の時は、いくら縛道があり難儀するとはいっても寝返りが打てないワケではもちろんないが清拭の時の六車は本当に疲れ切っているのだ。
死神として通常戦ってて『疲弊した』と言われるのは戦いに十分な動きができなくなった場合をさすが、今の六車の場合は暴走時には正気を失っており自分への防衛本能も働きにくくなっているために本当に霊力が生命維持のギリギリ近くまで暴れ続けてしまう。
昼間、縛道の制御に抗えなくなって膝を付き、攻撃ができなくなってからも、意識を落とすまでしばらく時間があったのはそのためだ。
だからこそ今は襲ってくることすらできないことが確定しているために縛道を外せているが、暴走後の六車は本当に何もできなくなる。
となれば、六車は霊圧に余裕がある時は、いつ暴走するかわからず、霊圧を使い果たせば暴走はないが自力では何もできない。
ここまでのことになっているのは、『六車の場合、十二番隊が開発した薬をどの濃度で使っても結局魂に巣食っている虚の影響の大きさから他人を襲ってしまうことはしばらくは避けられない』と聞いた六車が早期回復のための賭けとして、十二番隊が開発した薬をかなりの濃度で使用し、治療期間を短くしようと努めているからだ。
強い人だ、と心から思う。
何も恥じることはない。これほど周りのために自分を追い詰めることができる者がどれだけいるだろうか。
「楽にしててくださいね。身体、気持ち悪いところとかないですか?沢山汗をかいたでしょう」
「………、しゅう、兵、」
「はい?」
「原因は、おれ、か?」
「え?」
「…泣くの、我慢してる顔」
「―――っ!」
眠気に抗っているような宙に浮いたぼんやりとした声なのに、それでも六車はこうやって、檜佐木を正しく『見つけて』しまう。
どんな時でも、いつだって檜佐木のことを見ていてくれる。
本当に泣き出したいような気持ちで、檜佐木は懸命に微笑んだ。
「いいえ、違います。…ただ、嬉しいだけです。…こうやって触れると、拳西さんが温かくて。大好きだなって、思って。拳西さんが、生きててくれてよかったなって、思ったら…、嬉しいだけなんです。」
「生きてる、…か。」
「生きてますよ、拳西さんは。ちゃんとここに、いる。」
だから檜佐木には吉良に何を言われても、ここに来ないなんて選択肢はない。
痛みも辛さも孤独も、情けなさも何もかも、それを感じている六車は確かに生きているのだから―――。
§§§§§§§
「なんて顔してやがる」
十一番隊でそう声をかけられた吉良は語調から当然斑目だと思い振り返ったが、そこに居たのは斑目ではなかった。
「○○さん…」
そう長くはないけれど彼も幼い時を共に過ごしたひとりだ。色々とあってもう何十年も、彼と、吉良、檜佐木の間は張り詰めたものがあったけれど先の藍染事件後彼は現世でしばらく心の休養をし、それからは、今となっては少し席次に差があるため特別親しくもしていないが、それでも間にあった殺伐とした空気は大分緩和されている。
「ちょっと…」
言いながら、ついでだからと彼に持ってきた書簡を渡す。
今は療養中の者も多いため執務が可能な者は本来の席次より上位のものを取り扱うことを正式に認められている。
「『ちょっと』ねぇ。ちょっとにゃ見えねぇから声かけたんだけどな、面白くねぇ。」
挑発混じりの声に吉良はグッと声を詰らせる。ただでさえ昨夜のことで気が立っているのに付き合ってられない、と踵を返そうとしたその背に、声がかかる。
「修兵関連か?ローズさんの訃報は聞いてねぇしな。ローズさん関連以外でお前がそこまで荒れるなんて修兵のことだろうよ」
足を止めたのが悪かった。肯定したようなものだ。
ああけれど、誰かに聞いてほしくもあったのだ。
隊長格は、“近すぎる”
彼なら…
隊員が半数にまで壊滅している皮肉な理由で、人気のない場所を見つけるのは簡単だった。
仕事中ということもあり酒も入らず長々と愚痴ってしまう心配もない。
ただ本当に少しだけ、吐き出したかった。
昨夜の一通りのやり取りを話し終えて、吉良は繰り返す。
「檜佐木さんが全然、僕の言うこと聞いてくれないんだ。僕は心配なだけなのに。……そりゃ最初に失言をしたのは僕かもしれないけどっ、でも、ローズさんより拳西さんのほうが大変なんだからって言い方までっ!」
「そうかよ、まあ俺はどっちが大変とか知らねぇし、てめぇらの喧嘩の内容なんてどうでもいいんだがな。まぁ…」
にたり、と彼は皮肉をこめて冷笑を浮かべる。
「これでてめぇも俺の気持ちが解っただろうよ。自分だけはずっと修兵の味方だなんて思ってたんだろうがな。それがどんなに馬鹿馬鹿しいことか解ったかよ、なぁイヅル。」
「―――ッ!僕は、っ、ただ…!」
そのあとに続けたかった言葉はなんとなくすんなりとは言葉にならずに詰まる。
けれど詰まったことで、頭の中でもう一度、何が言いたかったのかを考え、見えてくると、吉良は嗚咽のように震えた深い吐息を吐いて、手を額に当てて顔を俯け隠した。
「僕はただ、檜佐木さんには無事に生きてほしいだけなんだ。あの人は生き残ったんだから。」
どんな形であれ死んで、不自然な生を得ている吉良や鳳橋や、六車とは違う。
あの人は生きるべくして生きている。
そうだ。
檜佐木が虚化について、六車と鳳橋では巻き込まれた度合いが違うと言った時聞き流せなかったのは、それが事実であったとしても、その程度の違いになんの意味がある?と思ったのだ。
過去の苦しみがどの程度だったとしても、今の苦しみがどの程度だったとしても、結局彼らは死んで、今、不自然な生を得るしかなかったことは同じだと。
そしてそれは、自分自身も。
「僕だって拳西さんの事は大切ですし好きです。だけど、そのために檜佐木さんが怪我をして苦しんで何になるんです。」
生きているのに。
せっかく、生き残ったのだ。
その生を大事にしてほしかった。
「……馬鹿馬鹿しいな」
「○○くん…。……わかってくれる気、ないんだね。やっぱり話したの間違いだったな」
自嘲気味に苦笑した吉良に、彼はそうさと吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しいんだよ。自然だとか不自然だとか、何だそりゃ。そんなもん選べるのはお前らだけだ。それより力のない俺らにはそんな選択肢すらねぇ」
「そっ、れは…!」
「お前が『生きて』ねぇんなら、アイツと喧嘩して面白いことになってる今のお前は何なんだろうな」
「―――、ッ、ッ、ッ、」
今度こそ、吉良は昨日の自分の何が一番檜佐木の逆鱗に触れたのかに気づく。
吉良は拳西より、檜佐木を優先することを当然のように言ってしまった。
自然な形で生きている、檜佐木の命こそが優先されるべきだと、どこかで思っていた。
だけど檜佐木はそうは思わない。
そうは思わない人なのだ
『でも俺はお前が”生きて“てくれたことは嬉しかったよ』
六車にも、そして多分、吉良にも。
「そんなの、本当に僕が悪いってことじゃないですか…」
ついに天を仰いだ吉良に、彼はさも愉しげに笑う
「まあ謝りに行って更に揉めて面白いことになったらぜひ聞かせてくれよ、イヅル」
楽しみにしてるぜとひらひらと手を振って話を終わらせた彼に、解りやすい優しさはどこにもないけれど、何故かその皮肉が今は一欠片の救いだった。
§§§§§§§§§
席次の上では十席の彼が、今は六車の分も九番隊の全てを統括する檜佐木に届ける書簡があったのは本当に偶然だった。これも特例的に扱う書類が増えているせいだろう。
「ひでぇ顔だな」
それは狙ったというよりは素直に口から出た感想で、言われた檜佐木ももはやここしばらくで言われ慣れているのか大して気にもしない。
このあたりは吉良とは違っておとしにくい。
彼は内心溜息を吐く。
良い子ちゃんになった覚えはねぇんだけどな今でも。
現世にいる、短い間の養い親が頭の中で愉快そうに笑っている。
ああ腹が立つ。
「檜佐木副隊長…」
「なんだ?」
「ちょっと、吉良副隊長と喧嘩をなさったと小耳に挟んだんですが。」
如何にも愉快だというように指摘してやるとようやく顔が書簡から完全に離れ、檜佐木と視線があった。
「吉良、か?でもアイツは、そんなこと他人に軽々しく言う奴じゃ…」
「まあ普段ならそうでしょうねぇ。よっぽど追い詰められてたんじゃないですかね、誰かのせいで」
挑発だとすぐにわかるあからさまな挑発だった。
けれどそれにも、今の檜佐木の顔は歪んでしまう。
「なんでそんな…」
「俺はこの先もずっと、お前のことは嫌いだって言っただろ。まあイヅルのことも似たようなモンだが。そんなわけで嘲笑いにきたんだよ」
「そんなことに…「付き合ってる暇ないってか?でもお前、えらく丁寧に付き合ってるそうじゃないか」
「何、に?」
「死んだ拳西さんに。」
言った瞬間、ガラリと檜佐木の顔色が変わった。むしろ殴りかかって来なかったのが奇跡かもしれない。
あるいはほぼ毎日六車から受ける傷でその余裕がなかっただけかもしれないが。
「拳西さんは生きてる!」
「死んだからゾンビ化っての?したんだろーが。」
「でも今は、ちゃんと生きてる!暴走してる時だって拳西さんは奥底で解ってる!ちゃんと闘ってるんだ!!」
「死んだ奴が生き返ること自体おかしいだろうが。そんな不自然なモンに根気よく付き合うなんて相変わらずオヤサシイな。」
「いい加減に、「まあ不自然なのは吉良も同じだから、ソイツと喧嘩してることも奇特なんだがな」
「自然とか不自然とか、そんなの関係ないだろ!!お前まで吉良みたいなこと言うな!」
「関係ないなんて、生きてるお前の綺麗事だろ。実際死んだ吉良にとっては二度と、ちゃんと生きてるやつとは同じにならねえのにな。多分拳西さんたちも完全に同じにはならねぇだろ」
「そんな…っ、」
「現実見ろよ甘ちゃん。吉良は現実ってやつが見えてるから自分や拳西さんたちみたいな不自然なモンの相手しすぎるなっつったんだろうにな。」
「そんなの…、じゃあ…」
あの時、吉良が勝手に拳西さんの命を諦めようとしているように聞こえて、どうしても許せなかった。許せるわけなかった。
だけどアイツが諦めようとしてたのは拳西さんだけじゃなくて、自分の未来も、諦めようとしてた…?
呆然と、檜佐木は口の中だけで吉良を呼んだ。
吉良、ではなく、イヅル…と。
だとしたらどんな気持ちで、六車に向き合う檜佐木を見ていたのだろう。
吉良と同じに不自然な、六車に向き合う、檜佐木を。
だけどそれでも…
「やっぱり、拳西さんは生きてるよ。吉良も。もちろんローズさんも。」
「まだ言うか。」
「だって死んでしまった人は、生きてる俺のことを心配してくれたり、できない」
そうだろ?と涙が落ちていないのが不思議な悲しい微笑みで同意を求めてきた檜佐木に、
「不自然な生なんて与えられるほど大層な立場になったことない俺に同意求める、そういうところがいけ好かないんだよ」
まあ謝りに行って更に揉めて面白いことになったらぜひ聞かせてくれよ、と昨日言ったのと同じことを言って、彼は話を終わらせた―――。