献呪 右腕
「……あー、だる…」
今日は朝から妙に頭が回らない。若干熱っぽい感じもするし、任務に来るのはやめておいた方が賢明だっただろう、と山道をバイクで走りながら加茂愛人は思う。
ゴホッと一つ咳き込んで、気道の変な部分を刺激したのか盛大にむせる。人通りの少ない早朝でなければ事故でも起こしていたかもしれない。そう思う癖に引き返すことなくまたエンジンを吹かすあたり、すでに熱に浮かされ正常な判断力すら失っているふうにしか見えない。
幸い今の任務は3級呪霊の討伐、大して長引くことはないはずだ。帰ったら風邪薬でも飲んで寝よう。
目印の看板をスルーしたことに気づき慌てて引き返し、バイクをそこらに止めて山中へ歩みだす。少しふらついた足取りで草木をかき分けて、およそ3分といったところだろうか。突然右後ろに冷え切った気配を感じ咄嗟に飛び退いた。
(おいおいおい嘘やろ、この感じ確実に1級はあるやん…その上毒系の術式なんざ分が悪いにも程がある…!!)
ほんの数秒前まで自分の立っていた地面が、いかにも毒ですと言わんばかりの紫色の粘液に覆われシュウシュウと音を立てている。その煙でさえ自分の命を脅かす、色濃い死が空間に充満し、跳ねるこの喉を食い破ろうとしているのが分かった。
呪霊のタコのような口から、粘液がビュルビュル巻き散らかされどんどん逃げ場を失っていく。うかつに近づくことすら許されない。
こんな状況で恥など考えていられない。即時応援要請を出すべきだ。呪霊の様子をうかがいつつ、隙を見てスマホを取り出し、電話番号を打つ隙は無いので直近の通話履歴から電話をかける。3コール目でようやく繋がった。
「こちら加茂一級術師!!任務中登録されていない呪霊と遭遇!」
己の甲高い声を聞きながら、ふと思考がよぎる。
ここまで育った呪霊が、人通りが少ないとはいえ無いわけではない道のそばにいて、被害を出さないことなどあるのだろうか。
それだけじゃない。知性があるとは思えないわりに、行動パターンが妙に機械的だ。
「等級推定一級で毒液の術式保持!!!至急増援を、」
カシャンと音を立てて手の中のものが滑り落ちる。急速に熱を帯び始める右手を見てみれば、毒沼の中から這い出た黒い棘に貫かれていた。
なんや、人が差し向けたモンかいな。靄のかかった思考でもそのくらいは分かるらしい。
「……ですか…大丈夫ですか毒見くん!?ああよかった生きてるまだ手の施しようがある!!一旦この場を離れますよいいですね!?」
「……誰」
「ボクですボク、キミの同期の加茂和泉です!!覚えてないんですか!?悲しいなぁ…」
「…冗談キツイで、カラコンなんて買える環境やないやろウチは」
死にかけを拾った救いの手は、かつての知り合いによく似ていて、知らない誰かの真っ青な目をこちらに向けていた。思い出補正が藤色を見せることはなかった。