狼は吼える。陽の神は嗤う。
腕の中に収まった姿に赤い目がきゅうと歪む。
眠らせるのに十二分に加減したつもりだったのに、かけられた圧に苦し気に寄せられた眉間の皺を見てやはりまだ早かったかと肩を落とした。
ワーテル、と呟けば体が震える。
薄らと開かれた瞼から覗く目に光は無く、意識は沈んだままだというのが判った。
あの輝きが見られないなら意味がない。
傍に居てほしいのは、あの月の輝きを宿したひとだ。
だからまだ連れて行けない。
彼の本願を果たし、その身が自由になるまで。
彼がこの手をとることを選ぶその時まで。
「だからそう警戒するなよ」
赤い目が愉快だと言わんばかりに笑みを形作る。
その先にいたのは、飛び掛からんばかりに怒りに毛を逆立て唸る黒い狼だった。
ぴりりと背を駆けたものに拭いていたグラスを落としそうになって慌てて掴む。
欠けのない事を確認して息を吐き、それを仕舞ってからそっと意識を集中させる。
今のは船の中から感じた。
薄暗く鋭い刃物の気配。
ローの鬼哭かゾロの鬼徹のどちらかという所までは判るが、それが何故今感じるのかは判らない。
船の中で二振りがこれほど鋭い気配を発するという事は何かあったのだろうが、彼らがここを出て三十分も経っていない。ゾロが図書室に辿り着くには足りない。
万が一辿り着いていたとして、妖刀が抜き放たれた状態の気配がするのはおかしい。
手合わせは甲板か上陸した島、それも絶対二人きりではしないと約束させたし、ルフィが傍に居るならローが鬼哭を抜くことを赦さないだろう。
そんな事よりも自分に構えといつも通りに巻き付いている筈だ。
だがそれならこの気配は何だ。
嫌な予感に突き動かされるようにキッチンを出て二人の気配が揃った図書室へと早足で向かう。
「(ローの気配が薄い。ルフィの気配はやけに濃い。クソマリモは…何で船首まで行ってんだあのアホ!)」
悪態をつくがゾロの気配も図書室へと向かい出したので鬼徹が反応したらしい。
問題はローだ。
彼の気配が薄いという事は眠っているか気絶しているか、その状態で妖刀が抜刀されているのなら彼が乗っ取られている可能性がある。
だが鬼哭がローを乗っ取るような事態が船の中で起こるだろうか。
それも、傍にルフィがいるのに。
「(それともそのせいか?)」
ルフィが何かをして、鬼哭がそうしなければいけなくなったとなるなら辻褄は合うが、ローに懐いているルフィがそんな事をするかと言われればそれもおかしい。
どちらにせよ現場につけば判る事だ。
とにかくどちらにも怪我がなければいいのだが。
『ローを離せ』
「嫌だ」
背に回した腕を引き寄せてぎゅっと抱き込めば牙を剥きだす狼の姿をしたコラソンに赤い目が面白いものを見るように歪む。
「だからあの時威嚇されたのか」
ここで目覚めてから初めての邂逅、眩い月の下でローに逢った時の鬼哭のそれに思い至った。
「でもそれはおかしいだろ?だってワーテルは俺のだぞ」
『そいつはローだ。ワーテルとやらじゃない』
「ワーテルはワーテルだ。その名が忌み名とされて隠されても、俺にとっての唯一の相手に変わりない」
愛おし気に呼ばれる名にローが苦し気に息を吐く。
その様子にコラソンが体勢を低くした瞬間、近づく気配に同時に扉へと視線を向け、互いに睨み合う。
「折角の逢瀬に邪魔が入った、お前のせいだぞ」
『勝手に出てきて勝手にローを気絶させたのはお前だろ!』
むくれる男にコラソンが吼え、それに反応したのかローが何かを呟いた。
耳元で呟かれたそれにますます機嫌を悪くしたらしい彼が狼を睨みつける。
「…仕方ない、ワーテルがそれを望むなら」
『っが、ぅ!?』
体がひしゃげるかと思う程の重圧がコラソンを襲い、地面に無理矢理抑えつけられる。あのロジャーに鍛えられ、間違いなく強くなっている筈なのにこうも簡単に地面に縫い留められた事に悔しいと牙を鳴らす。
そんなコラソンの心情を知りもせず、ローを片手に抱えたまま近づいた男の空いた手がコラソンの伏せられた獣の左耳に添えられた。
「お前に護られるような男じゃないが、俺も自由に出てこれるわけでもないからな」
ばちんと音と痛みを伴ったそれから手を放せば黒い毛並みに映えるローと同じ金の輪がそこに煌いた。
それと同時に自身の身体の異変に気付いたコラソンが男を睨み上げる。
「ワーテルはそういうのが好きだから、ちょっとしたサービスだ」
力の抜けていく体で床に爪を立てながら、コラソンが唸る。
『(ロー、すぐそばに、いるのに……っ)』
暗くなる視界で男が何事かローへと囁いているのが見える。
「お前はいつも俺以外を選ぶ。いい加減焦らされるのも我慢するのも限界なんだ」
ワーテル。
早く、俺を選んで。
その言葉と共に晒されたローの喉へと噛みつこうとするのを最後に、コラソンの意識は遮断された。
「…気配が収まった?」
もうじき図書室に辿り着くという所であれほど濃く感じていたルフィの気配が薄まり、同時に妖刀の気配も収まった。
相変わらずローの気配は薄いが、それでも先程までの不穏な気配はない。
とりあえず最悪の事態は避けられたようだが、それはともかく何が起きたかは二人から聞かなければいけない。
「お、着いた」
図書室前で同じように駆けて来たらしいゾロと鉢合わせ、思わず眉間に皺が寄る。
「何でこの距離で迷ってんだお前」
「迷ってねえ、何でか着かなかっただけだ」
「一本道だが???」
「んな事どうでもいい、今の気配感じたんだろ?」
そう言われて頷く。
鬼徹の柄頭に手を添えているという事はやはり鬼哭の気配に反応したのか。
とりあえず静かな図書室の扉に手をかけ、すぐに抜刀出来るようにしたゾロと顔を見合わせて頷く。
「ルフィ、ロー、いるか?」
返事は無い。
ノブを捻り、そっと押し開ければしんと静まり返った部屋に緊張しながら入り込む。
見回せばすぐにソファに人影を見つけられた。
豪快に鼻提灯を膨らませて寝ているルフィと、その腕に抱き込まれて縮こまるように眠るロー。
鬼哭は鞘に納められたままローの傍に立てかけられている。
「…勘違いってわけじゃねえが今は大丈夫か?」
「鬼徹も黙っちまった。どうやら解決してるみてぇだが」
そう話していればぱちんと鼻提灯が割れ、ルフィが眠そうに起き上がる。
「んぁ?なんだ、もうメシか?」
「さっき食ったばっかだろ」
「何でお前らこんな所で寝てんだ」
「お前ら?」
「ローまで一緒に寝てるのは予想外だったがな」
そう言われて腕の重みに気付いたのか、視線を下げて眠るローを見つけたルフィが驚く。
「何でトラ男と一緒に寝てんだ?」
「俺らに聞かれても判るわけねえだろ」
随分と深く眠っているようで、ルフィがそっと上半身を抱き起しても起きる様子が無い。
「寝てる時まで眉間に皺寄ってるのかよ」
「まあルフィのお守りしてれば判らんでもないが」
「俺そんな事されてねえぞ?」
「無自覚って怖ぇな…」
遠い目をしていたサンジがふと違和感を感じてローに近づく。
目の下の隈は変わらないし、顔色も元々悪いだけで変化は無い。
何が違うのかと首を傾げていればとりあえずベッドに寝かせようとルフィが膝裏にもう片腕を差し込んだ瞬間にローの首元のもふもふが動いた事で気付く。
「ちょっと待て、ル」
「むがっ!?」
フィ、と言い切る前に飛び出したそれがルフィの顔面にぶつかって落ちる。
うっかり取り落としそうになったローはゾロが間一髪抱き止め、思い切り頭を揺らす羽目になったローが寝ながら唸る。
「なんだ!?」
「…なんだろうな、これ?」
ふわふわとした黒い毛玉にしか見えないそれをルフィが摘み上げてみればぐるると唸る声が聞こえてくる。
掌ほどのサイズをしたそれには小さな耳と尻尾があり、丁度ルフィが抓んだ所が首の後ろだったらしく至近距離で目が合ったルフィに対し警戒するように尻尾を逆立てている。
「…狐か犬か?随分小さいけど…どっちかと言えば犬?」
「何で船の中に犬がいるんだ…うぶっ!?」
体の二倍ほどの長さがあるふわふわの尻尾がルフィの顔面に叩きつけられ、降ろせとばかりに短い手足をばたつかせるそいつを思わず取り落とせば垂れ下がっていたローの手にひっつき、そのまま胸元まで駆け上がって首元に巻き付く。
なるほどいつもよりもふもふ具合が高いと思えばこいつが巻き付いていたからかと納得し、二度も攻撃されたルフィを見る。
「お前こいつに何かしたのか?」
「知らねー!なんだこいつ」
「ローが飼ってる、ってわけじゃねえよな?」
「飼ってるなら言ってくるだろ。食料の減りだって変わってくるのは判るし」
「なら野良か?やけに懐いているみたいだが」
ゾロが指先で額を撫でてやれば唸りながらも気持ちよさそうに目を細める。
それを見てルフィが手を伸ばせば尻尾で叩かれ、なんでだとぶすくれる。
「単にルフィが嫌いなだけか?」
「俺!何もしてねえんだけど!?」
「動物の好き嫌いはよく判んねえからな…」
そのままゾロがローを抱き上げてソファに凭れさせ、ルフィに唸る犬(?)の尻尾を抓む。嫌そうに振り払われるがルフィのような攻撃は来なかった。
「そんで?お前が寝てるのは判るがローはどうした?こいつが俺らの前でこんなにぐっすり寝る事なかっただろ」
「んー…?確かトラ男が本探してるの見てたら眠くなって、そんで…?」
むむ、と首を捻るルフィが小さく声を上げる。
「何でかトラ男に滅茶苦茶睨まれた気がする」
「やっぱなんかやったんじゃねえのか?」
「心当たりねーぞ」
「傍から見たらありまくりなんだが」
首を傾げるルフィでは埒が明かないとローの肩を揺する。
「ロー、ロー。寝てる所悪いが聞きたい事がある」
名を呼んでやれば薄らと瞼が開き、ぼんやりとした目で辺りを見回す。
そうしてルフィへと視点が定まると瞬いた目に鋭い光が差した。
「…むぎわらや?」
「おう!何でか一緒に寝てたらしくてよ。俺寝る前何して」
伸ばされた手がルフィの頬を抓み、容赦なく横へと引き延ばす。
「なにふんら?」
伸ばされっぱなしのまま問えば真剣な眼差しがルフィを見つめ、安堵するように息を吐く。
「いや、悪い。変な夢を見ただけだ」
手を放し、そこでゾロとサンジが居る事に気づいたらしく僅かに目を見開いた。
「珍しいな、トラ男が寝落ちなんて」
「ああ、思ったより疲れてるのかもしれねえな」
「やっぱ肉食わねえからだぞトラ男」
「お前の食いっぷりを見てたら食欲も失せる」
よくもまああれだけの量を質も保って提供できるものだと感心しはするが、真似をしようとは思わない。
「ロー、お前ここで鬼哭抜いたか?」
「は?抜くわけねえだろ」
怪訝な顔をするローに嘘をついている素振りは無い。
壁に立てかけてある鬼哭を一瞥し、静かなままのそれに首を傾げた。
「ゾロ屋、鬼哭が随分静かな気がするんだが」
「気のせいじゃねえぞ。鬼徹が急かすから来たのにうんともすんとも言わねえんだ」
違和感の正体を探ろうと体を起こせば首元に柔らかく暖かいものを感じた。
湿り気を帯びたものが喉に触れ、思いもしない感触に変な声が漏れる。
「そうだ、そいつの事も聞きたかったんだ」
「そいつ?」
ゾロがローの首に手を伸ばし、びくりと肩を揺らしたローの首元から抜き取られたそれに瞬きを一つ。
ふわふわのまるまるした黒い何か。
短い手足につぶらな赤い瞳。
好意を示す様に振られる長くもふもふした尻尾。
無意識に受け皿のように両手を出せばそこに降ろされた手触りに唇が綻ぶ。
「えっ何だあの反応、初めて見たんだけど」
「いや、あっちのシロクマと一緒の時こんな感じだっただろ」
「何だこいつ、この船で飼ってるのか?でも前乗った時はいなかったよな?」
若干目を輝かせながらこちらを見るローにやはり彼が連れ込んだわけではないらしいと頷く。
「飼ってない。今ローの首の所にいたのを見つけた所だったんだ。ローが飼ってるんじゃないのか?」
「うちは潜水艦だし医療器具が多いからな、生物を飼うのに適さない」
死の文字を刻んだ指がそろりと犬(?)を撫でればぷるると体を震わせながらも嬉しそうに尻尾を振る様子にすっかり夢中になっている。
「何で俺には攻撃的なのにトラ男にはあんなんなんだ?」
「単なる好き嫌いだろ」
「俺だって撫でたい!」
「多分次は噛まれるか引っかかれるから止めとけ」
そんな外野を無視して掌の毛玉を撫でまわしていれば左の耳に見覚えのあるものを見つけて指先で触れる。
金属特有の冷たさと滑らかさをもったそれは自分がつけているものとよく似ている。シンプルなものだから珍しいものでもないのかもしれないが、何か意図を感じて僅かに眉根を寄せた。
誰かがここに忍ばせた可能性を考え、次いで犬(?)が現れた状況を考え、そうして夢の内容を思い返して。
「……鬼哭、か?」
肯定ととれる元気のいい鳴き声とぶん回される尻尾にまさかと思いながら掌の毛玉と壁にある刀を交互に見て、そうしてその気配が薄いながらも鬼哭のものであると理解した。
いや何でだ。
「鬼哭?こいつがか?」
「気配は確かに薄いが似てる気もするな…」
肯定するように鬼徹が鳴り、ルフィが首を傾げる。
「…え、それだと俺鬼哭に嫌われてるって事にならねぇか?」
「ローに負担かけてるからじゃねえか」
「それはあるかもしれない」
同意するローに憤慨するルフィを宥めるサンジを尻目にそれに気付いたゾロがローの顎に手をかけて上を向かせる。
「っ、おい、いきなり何だ」
「そいつで見えなかったが赤くなって…こいつは…」
そう示された喉をルフィとサンジも覗き込み、そこにあるものを確認して剣呑な気配が漂う。
「…おいルフィ、覚えは?」
「……無い、と、思う?」
だらだらと冷や汗を流すルフィを真顔で見るサンジと納得するゾロ。
何か判らないが喉に何かついているのかと指を這わせればでこぼこと皮膚がへこんでいるのが判る。左右対称に半円を描くようなそれが歯型なのだろうと思い至って、未だ上げられたままの顎を引けばゾロの指が離れた。
「食事の時には無かったんだからここ来るまで一緒にいたお前しかいねーだろ!」
「そういえば…夢の中で腹減って肉食ったような気がする」
「寝ぼけて噛みついたって事か?良かったなトラ男、噛み千切られなくて」
「恐ろしい事を言うんじゃねえゾロ屋」
若干蒼褪めながら喉に触れる。
寝ぼけた同盟相手に喉を噛み千切られて死ぬ、なんて笑い話にもならない。
「まあ次やろうとしたら鬼哭に噛みつき返されると考えればこの状態でも構わねえか」
「よくない!いや噛みついたのは悪かったけどトラ男の近く行くだけで唸るじゃんそいつ!」
「指を指すな」
再びローの首元に戻った鬼哭がぴくりと耳を立て、突き付けられた指を尻尾で叩き落とす。むくれるルフィに思わず笑いがこみ上げてくる。
「何笑ってんだよ…」
「ふ…っいや、つい」
笑いながら伸ばされた手がルフィの頭を撫でる。
゛ ゛はこうするとすぐに機嫌が治ったな、と思って、ぽかんと口を開けたままのルフィを撫でていれば、その通りに上機嫌だ。
……゛ ゛って、誰だ?
「トラ男?」
【 】
手を止めたローにかけられたルフィの声に、誰かの声が被ったように聞こえた気がしてまだ寝ぼけているのかと息を吐く。
「鬼哭もあんまり邪険にするな。同盟を組んでいる以上怪我をさせると拙い」
器用に尻尾でバランスを取って肩に座った鬼哭の額を指で撫でてやればルフィをじっと見つめた後渋々といったように小さく鳴いた。
「とにかく騒がせたようで悪かったな、黒足屋、ゾロ屋」
「ん、何もなかったならいいんだが、それ消毒するか?」
それ、と示された歯型は確かに目立つが、皮膚を突き破っているわけでもないし洗い流すだけでいいだろう。
「後でスキャンしておく、気遣いだけありがたく受け取ろう」
「そうか。ルフィ、お前次やったらおやつ抜くぞ」
「えっ」
「ローと一緒に寝るとまたやりそうだから近くで寝るなよ」
「ええ!?」
「ついでにあんまり引っ付いてやるな、他の船ってだけでも疲れるのにプライベートも無いんじゃホントにふらっと消えるぞこいつ」
「それはやだ!でも俺はトラ男を構いてぇ!」
堂々と言うので深い溜息が出た。
「…とりあえずもう寝る時間だろ。部屋戻ろうぜ」
「そんなに時間経ってたか…今日の見張りは?」
「チョッパーが今行ってるから後一時間ちょいで俺だな」
「明日はほぼ一日陸か、いい酒があるか楽しみだ」
口々に話しながら図書室を出る。
最後に刀と犬(?)とを連れたローが扉を閉め、ねぐらとなった展望室へと向かう。
「トラ男、おやすみー!」
「ああ、おやすみ」
ぶんぶんと手を振るルフィに片手を上げて返し、歩を進めてふと窓の外を見る。
星の散る、月の美しい夜空。
その遥か遠くにやけに明るい星が炎のように燃えて見えた。