無題
小窓から差し込む朝日で目が覚めた。
薄曇りだが穏やかな風は涼しく波は穏やかで、出掛けるには絶好の陽気に違いない。水平線の向こうに近くの島々とここを繋ぐ客船の影が見えた。おそらく今日の一番客は彼らになるだろう。窓を開けてタバコの火を付ける。肌に馴染んだ香りは誰にも邪魔されない朝の至福のひと時だった。
今日も今日とて戦場のような一日が始まろうとしている。
「おいっ!バケツ倒すなよ」
「どうせ全部濡らして拭くんだろ?手間が省けたじゃないか」
「あーあー、ちゃんと拭けよ?少しでも水溜りが残ってたらどやされっぞ」
「分かった分かった」
階下のフロアから掃除をしている朝番たちの声が聞こえる。バケツを倒したのは少し前の補給で「実家の飯屋でタチの悪い客と喧嘩したら親に勘当された。雇ってくれ」と乗り込んできたクソ生意気な新入りだろう。掃除がちゃんと終わってなかったら後でオロしてやる。
……まあ、試用期間を終える前に「こんなとこで働いてたら命がいくつあっても足らねェ!」「故郷に帰らせてくれ!」と泣きついて下船していったウエイター達と比べれば叱られても挫けない根性だけは買ってやってもいいか。今日は昼過ぎからのシフトだったはずが、ウエイターがいないとなれば早めに降りておれが回すしかないだろう。クソジジイは今日非番だから気が向いた時しかキッチンに顔出さねェだろうし。
「カルネ!おれの一張羅どうした」
「洗濯はお前の番だったろ、おれの制服ちゃんと洗ったのか?」
「ちゃんと洗って干してあるぜ」
「びちょびちょじゃねェか!パティ、てめェどんな洗い方したんだよ」
またどこかで言い争う声が響く。どいつもこいつも血の気が多いし、皿洗いはまだしも掃除や洗濯すらまともにできねェクソ野郎が多すぎる。カルネとパティは交代で洗濯をしているらしいが、やったやらないの口喧嘩は日常茶飯事だ。
おれは短くなったタバコの火を消し、クローゼットからアイロンのかかったシャツを取り出し袖を通す。シワ一つないスーツを羽織り、鏡で寝癖が付いていないか確認する。ついでにレディーに対しての特上スマイルと、対その他ジャガイモ野郎どもへの最低限の愛想を浮かべた。
キーンカーン、リンゴーン
定時の鐘が鳴るとキッチンの方がにわかに慌ただしくなる。仕込みならおれが昨日夜遅くまでかけクソ完璧に仕上げているから、少なくとも午前中は余裕がある見込みだ。
フロアまで下りると階段の前にバケツが転がっていた。危ねェだろと足で避けると「副料理長、おはようございます!」と元気な声が聞こえてきた。
「おう、おはよう。片づけはきっちりしろ。フロアに水滴一つも残ってねェだろうな?」
「だ、大丈夫です!任せておいてくださいよ」
「ああ、頼んだぞ」
モップを抱えながらバケツを拾い危なっかしく走り去る新人の背中を見送って、少しネクタイを緩めた。今日も素敵なレディ達の笑顔のため…とついでにその他野郎どもにも食いてェもんは食わせてやる。それがおれ達の仕事だ。
海上レストランバラティエ開店まであと一時間。