無題

無題


──目が覚めると、私はショーケースの中に立っていました。

 空を見上げても視界に入るのはガラスの天板のみ、しかも外周は格子状のカゴめいた空間になっていて身動きが取れそうにありません。というか私の身長より3倍以上も高いのです。例えるならばフェンスで囲われた屋上、あそこには飛び降り防止という明快な理由がありますが、果たして私はカゴに閉じ込められる理由も無ければショーケースに収蔵される理由もないのです。

 ふと、視線を横に向けてみると。これまた奇妙な代物が私と同居していました。鮭です。いやサーモンでしょうか。箸を入れてみれば分かるのですが、流石に生魚を素手で触るのは気が引けます。ご丁寧に綺麗な皿へ乗っているので、これから誰かに振る舞われるのでしょう。何故冷蔵庫ではなくショーケースにしまっているのかは心底意味が分からないのですが。

 パチリ、と。スイッチを入れたような音が聞こえました。同時に轟々と空間を揺らすような音が聞こえてきます。なにやら一大事ということは察しましたが、いかんせん今の狭い空間では身動きが取れません。

「え──がぶっ……!?」

 空から降り注いできたのは、他でもありません。水でした。大量の水です。ゲリラ豪雨にあったような、線状降水帯に巻き込まれたような、バケツをひっくり返したがごとくの水が、私とサーモンを殴りつけます。あまりの不意打ちに水を少し飲み込んでしまい、その後は溺れるような濁流に目が眩みます。果たして5分でしょうか10分でしょうか、ようやく天からの滂沱が済んだ頃には私も息絶え絶え、サーモンもすっかり脂が落ちてしまっていました。

「……あれ、暑い……?」

 ずぶ濡れになった身体は寒さに震えていたはずなのに、肌はちりちりとした痛みを覚え始めます。少しの間を置けば、すっかり全身は綺麗に乾いてしまっていました。ドライヤーを当てられたわけでもないのに、髪の先まで。私はまあ短髪ですが。

 そのままじわりじわりと周囲の温度に違和感を抱きます。たとえ夏であったとしてもこれほどに暑いか? 乾き切った素肌は熱に炙られ、奇妙な痛みに苛まれていました。

「──ッ〜〜〜〜!?」

 先ほど水を飲み込んでしまった肺は、新鮮な酸素を求めていて。思い出したかのような深呼吸、それが吸い込んだのは正しく「熱気」でした。取り込まれた空気が肺胞の一つ一つを熱していき、視界が陽炎に眩みます。しかし動物は呼吸なしに生きていけないわけで、こうしている間にもどんどんと熱を孕み温度の高まる酸素を吸い込まずにはいられません。加速度的に、私の意識も靄めいていきました。

 さながら湿度の低いサウナと言ったところでしょうか。あちらは水分のお陰で温度上昇にも頭打ちがありますが、この空間にはそんな道理も通用しません。いつの間にか立っていることすらままならなくなった身、倒れ込んだ私の目に映ったのはサーモンピンクの輝きだけでした。

 香ばしい香りが周囲を満たし、微かにお腹の鳴る音が響きます。ああ、こんなことなら少し高くてもサーモン買っておけばよかったかな。そんな後悔をよそに、私の意識は熱に溶けていくのでした……

Report Page