無題

無題


カチン、とグラスが音を立てる。

綺麗に磨かれたガラスに、注がれた透き通るような液体がたぷ、と揺れた。

「成人、おめでとう。乾杯。」

「あんがと。かんぱーい」

クイッと飲み干せば喉が焼けるような刺激が走る。

「どうだ。日本酒の味は。」

「うげぇー。苦い……。でも嫌いじゃないかも。」

くつくつと喉奥で笑いながら、日車はグラスを傾ける。

「成人したての子供にはまだ早かったか?」

からかうような言葉に、虎杖はむぅ、と頬を膨らまし、今度はゆっくりと飲み始める。

「俺だってもう大人だっつの!」

日車のばーか。ばーか!と反論すれば、さらに笑われてしまう。

「ふっ。……そうだな、お前はもう大人の男だものな」

子供をあやす様な口調につい反発心を覚えてしまいそうになるのをぐっと堪え、虎杖はグラスを傾ける。

「その言い方、おっさん臭いよ、日車」

「悪いか。もうおっさんだ」

それもそっか、と納得し虎杖はちびちびと舐めるように飲み続ける。その様子を日車は愛おしげに眺めていた。

「大人に……なったな、本当に。」

しみじみと呟きながら、日車はグラスの中の液体を一気に煽る。

日車の言葉に、虎杖はニカッと笑って呟いた。

「うん。俺さ、もう大人だよ」

グラスに残った液体を飲み干すと、机にコトンと置く。そしてまた日車の方に顔を向けた。

「あの通帳の中身さ、ほんとに俺が貰って良いの?」

「何度も言わせるな。君の為の貯金だ。好きに使え」

「だってさ、あれすごい金額じゃん。家とか車とか買えちゃうよ?」

「君がそうしたければ、そうしたらいい。君にやったものだ。俺がどうのこうの言うつもりは無い」

「もう……。日車ってそういう所あるよね……」

呆れたように肩を竦めながら、虎杖はグラスに残った酒を飲み干す。酒が通った喉がじわりと熱を持ち始めていた。

「もっとさ、自分のために使って欲しいんだけどな」

その言葉に日車は表情を崩さない。眉一つ動かさず、彼は続ける。

「自分のため、か。それならもう使ってるさ」

「え?」

予想外の答えに虎杖は目を見開く。日車は肩を竦めながらこう続けた。

「最初に言っただろう。俺は君の成人を祝ってやりたかったんだ。」

そう語る日車の口調はどこか優しいもので、虎杖は思わず面食らう。てっきりもっとそっけない返事が返ってくると思っていたのに、彼の声色はとても慈愛に満ちていた。

ほんのりと赤く染まった頬は酔いのせいか、それとも。

「成人おめでとう、悠仁」

そう口にする日車の表情はまるで親のような慈愛に満ちていた。そんな表情を見せられては、嬉しさと気恥しさが同時に沸き上がってきてしまう。

「お……おう。ありがと……」

少し裏返った声で礼を言うと、ますます日車の笑みが深くなる。

急に名前を呼ばれた事でどきり、と心臓が跳ねた。

「……なんかさ、日車って……結構俺のこと好きだったりする?」

冗談混じりにそんなことを口にすれば、日車はきょとんとした表情を見せた後、真面目な顔でこう言った。

「もちろん。この世で一番好きだな」

(まじか……)

そんな言葉を真正面から受けてしまい思わず顔を背けてしまった。なんだか身体が熱い気がするのはきっと酒のせい。

そうに決まってる。

じゃなきゃあの日車がこんな事言うはずがない。

「……俺も日車の事、好きだよ」

妙に声が震えてしまった。まだお酒も一杯目なのに頭がふわふわする。まるで夢の中にいるみたいだ。

そんな自分を誤魔化すように残った酒を一気に煽った。喉が焼けるように熱くなるがそれでも構わず飲み干すと、胃の中がカァッと熱くなる。そしてまた心臓の鼓動が早くなった気がした。

「知ってるよ」

そんな俺を見て日車は何故か嬉しそうだった。少し悪戯っぽく笑う彼の表情に思わずドキッとする。

「……まだ俺の事子供扱い?」

唇を尖らせながら睨みつけるように彼を見れば、日車は大袈裟に肩を竦めて見せた。そして彼は残っていた自分の酒を飲み干し、グラスをコトンとテーブルに置く。そしてゆるりと微笑みながら言う。

「ふ…大人扱いして欲しいのか?」

その言葉に思わず身体がカッと熱くなる。顔も赤くなっている事だろう。だがそれ以上に日車が酒を飲み干す様子に、目が離せなくなっていた。飲み終えたグラスに、薄い唇が寄せられる。口元が動く度に彼の喉仏が上下する様に釘付けになっていた。

ごくり、と彼の喉が動く。酒を嚥下する音が妙に大きく響いた気がした。

空になったグラスをテーブルに置くと、日車は口の端を上げながら

「大人扱いして欲しいなら……お望み通りしてやるが?」

くくっ、と口の端を歪めて笑う。

虎杖はごくりと唾を飲み込んだ。心臓がばくばくと音を立てているのがわかる。なんだかとても恥ずかしいことを要求されている気分だ。だがそれでも、虎杖は日車から目を離すことが出来なかった。

「……なんてな。冗談だ」

手酌でもう一杯酒を注ぎ、また一口飲む。そんな日車の姿を、虎杖はじっと見つめていた。

その視線に気がつきながらも彼は素知らぬふりをして言葉を続ける。

「今日は君と初めて飲める特別な日だからな……少し浮かれてるのかもな」

そう言って、優しく微笑む日車の表情はとても穏やかで。その笑顔が自分に向けられているのだと思うと胸の奥がきゅっと締め付けられた気がした。なんだか泣きそうな気分になるのは何故だろう?分からないまま、それでも何故か目頭が熱くなり、視界が滲むのが分かった。

「そっか……」

虎杖はぽつりと呟くと立ち上がった。そしてふらふらとした足取りでテーブルを回り込んで日車の側までやってくると、そのまま彼の肩に額を押し付ける。

「どうした、甘えんぼか?」

ぽんぽん、と頭を撫でられる。その手つきはどこまでも優しくて、心地よくて。虎杖はそのままの姿勢で答えた。

「そういう気分」

短く答えれば日車は小さく笑いながらグラスを傾ける。

そんな動作すらも様になっていて、狡いなあと思った。

「……俺さ、」

「どうした?」

ぽんぽん、と頭を撫でながら日車が尋ねてくる。その声音が酷く優しくて、尚更何も言えなくなってしまった。

代わりに、額をぐりぐりと日車の肩口に押し付ける。

彼の首元からは香水とはまた違った、それでいていい香りがした。

「……あのさ」

「なんだ?」

なんでもない。そう言おうとしたのに、言葉が詰まってしまう。ぐっと唇を噛んでから口を開いた。

「……これからもずっとそばにいてよ」

(ああ……俺何言ってんだろ)

頭がぼんやりして考えがまとまらない。それでもどうしても言わなければいけない気がして、自然と口から溢れ出ていた。それを聞いた日車は僅かに目を見開くと、すぐにいつもの表情に戻る。そしてそのままグラスに残った酒を一気に飲み干した後、静かに呟いた。

「……それは…」

日車はそこで言葉を切ると、そのまま黙り込んでしまった。その表情はどこか寂しげで……苦しげに歪んでいる。

「…虎杖、それは出来ない」

絞り出すような声で、日車は言う。その視線はテーブルの上に置かれたグラスに注がれていた。

「な……んで……」

喉から絞り出された声は酷く掠れていて、震えていて。自分で喋っているはずなのにまるで他人の声のようだった。そんな自分を落ち着かせるかのようにゆっくりと息を吐くと、再び口を開く。

「分かっているだろう。もう、とっくに」

「……っ」

その言葉に胸が締め付けられる様な痛みが走る。分かっていた事だが、改めて言われるとやはり辛いもので……視界がじわりと滲むのが分かった。日車はそんな虎杖の姿を見ても何も言わない。ただ静かに酒を呷り続けていた。

「行き先は別れた。君は先に進む。」

「っ……やだ」

駄々っ子のように日車の服の裾をきゅっと握る。別れたくない、行かないでと、虎杖は視線で訴えた。それが通じたのか、日車は困ったように眉尻を下げて笑った後、こう言った。

「最後まで一緒に行ってはやれない。だが…」

グラスから手を離した日車は、そっと右手を虎杖の頭の上に置いた。優しく撫でられると温かくて気持ちよくて思わず目を閉じる。日車の手はそのまま髪の流れに沿うように下へ降りていき、頬へと辿り着いた。まるで割れ物に触れるかのように繊細な手つきで触れられるものだからくすぐったくて仕方がない。そんな所も全て好きだと感じてしまう自分がいる。ゆっくりと目を開くと目の前には真剣な眼差しをした彼がいた。その瞳に見つめられているだけで胸の奥が苦しくなるような感じがする。

「君が生きる為の呪いにはなれる」

その言葉を聞いた瞬間、止まっていた涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。止めようとしても止まらなくて次から次へと零れ落ちていく雫は日車の手を濡らす。まるでそれが合図であったかのように彼の手が離れた。温かい手が離れると同時に名残惜しさが込み上げてくる。その温もりをもっと感じていたかったのに……そう思うと余計に涙が出てきてしまった。そんな俺を見兼ねたのか彼は優しく微笑みながら言った。

「君の事は絶対に忘れない」

その言葉にまた涙が溢れ出した。

「君は君の進む道を行け。……それでいい」

『後は頼みます』

日車の声に重なり、もう1人。

懐かしい声が聞こえた。

「ひぐ、るま……ナナミン……」

嗚咽混じりの声で名前を呼ぶ。すると彼は微笑み、小さく頷いてくれた気がした。

(そうだ……そうだよな)

ここで立ち止まっていてはいけない。

前を向いて歩いていかなければならないのだ。別れは確かに辛いけれど、それでもいつかきっとまた会えるのだから。

「……日車」

「なんだ?」

顔を上げて彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「俺、頑張るよ」

「あぁ」

短い返事だったが虎杖にとっては充分だった。

言いたいことは伝わったのだ。

「じゃあ……行ってくる」

「行ってこい」

その会話を最後に、虎杖はゆっくりと背を向けた。そして歩き出すと背後に聞こえた声はもう聞こえない。それでもよかった。彼ならきっと自分の進む道を見守っていてくれるはずだから。

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