激戦の後
全てが終わった。
戦いに勝利したルフィは、両翼の2人と並んで、敵であった者を見つめている。
敵は瓦礫に背中を預け、3人を苦しめた敵の武器はその脇に転がっている。
本気でやらねば止められなかった。3人の攻撃に敗れたその敵はもはや指一本動かせないほど消耗し、ただ虚ろな目を向けている。
さんざん感じられた敵意や憎しみはもうそこには存在しない。
ただぼんやりと、3人を、または他の何かを見ていた。
「……チョッパーを呼ばねェと」
サンジがつぶやく。
彼の見聞色が、その敵の命の灯火が消えかかっていることを捉えた。
いや、誰の目に見ても明らかだ。投げ出された四肢がぴくりとも動かない。か細い呼吸と共に、胸がわずかに上下するばかり。
「やめておけ」
背を向け、離れた仲間を呼びに行こうとしたサンジをゾロが止めた。
刀の鍔に親指を添え、いつでも鯉口を切れるようにしている。この場において彼だけが、この敵の恐ろしさを昔から知っている。
たとえ死にかけであろうと、油断ならない相手だと知っている。
そうだ。相手はたった今まで激戦を繰り広げた強敵。
凄腕と名を馳せた賞金稼ぎ。彼ら海賊の敵だ。
「こいつは船長を、そしておれ達を本気で殺そうとした奴だ。……こいつを助けてどうする」
「何言ってんだ……それでもその子は」
「いくらルフィの幼馴染だからって、好き勝手しすぎだ」
敵……ルフィの幼馴染、救えなかった幼馴染の双子の妹。
かつてエレジアで世界の幸せを願い、世界を転覆させようとした歌姫の妹が、彼らの前にいた。
「回復したこいつが、またおれ達を襲ってきたらどうする」
彼女の両脇に転がるそれ。
さんざん3人を苦しめたその凶器を取り上げることすら、警戒してためらっているというのに。
「それは……だからって見捨てられねェだろ。ウタちゃんの……ルフィの」
「それに、もう遅ェ。……もう時間が無ェよ」
「っ……」
ゾロの言葉に、サンジは黙り込む。
優れた見聞色で、彼もわかっていた。
彼女の心音はもう鼓動を奏でようとしていない。止まったわけじゃないが、ゆっくりと、ゆっくりと、その働きを終えようとしている。
酷使されたその身体は、もはや手の尽くしようがないほどに、限界を迎えていた。
「……クソ」
サンジは悔しそうにつぶやき、船長を見た。
ゾロも、刀を抜く準備をしたまま視線だけを船長に向ける。
ルフィは彼女を見つめている。
虚ろな彼女の瞳とは、いまだに目が合わない。
そして麦わら帽子のつばに手を添えると、静かに2人に声をかけた。
「……2人だけにしてくれ」
船長命令でなく、仲間としての願い。
先程まで命を狙ってきていた敵と、2人きりにして欲しい。
「……アドちゃんを1人にさせんな」
サンジはタバコをくわえ、火を点けながら背を向けた。
ゾロも鍔から指を離し、サンジの後に続いた。
ルフィの隣を通り過ぎるとき、一度だけ振り返って彼女を一瞥する。
「……ケリつけてこい」
願いを聞き入れてくれた仲間達に頷き、ルフィはゆっくりと彼女へと近づいた。
仇が近づいてくる。
命を狙っていた相手が近づいてくる。
しかし彼女は動かない。近くに転がる彼女のエモノに手を伸ばすこともしなかった。
「……アド」
ルフィは声をかける。
彼女の姉と瓜二つな顔立ち。姉ならば世界を魅了する歌声を紡ぐその唇が小さく動き、何かをつぶやいている。
もはや声は出ていない。繰り返しつぶやかれるそれは音になっていなかった。
「アド」
彼女の名前を呼びながら、目の前にしゃがみ込む。
麦わら帽子をとると、自分の隣にそっと置いた。
アドは目の前のルフィに視線を移したように見えたが、その瞳は何も映していなかった。
雪のように白い肌。激戦の最中破れた袖から覗くその肌には、いくつもの注射の痕が残っている。
「……お前昔っから体弱かったもんなァ」
彼女の頬をさすってやる。
氷のように冷たい。
「寒いのか」とつぶやき、ルフィはアドの隣に座った。
肩に手を回し、そっと自分に引き寄せると、アドはなんの抵抗もなくもたれかかった。
そして優しく抱きしめてやる。自分の体温を彼女に分け与えるように。
「寒いときはこーしてな、おれとウタであっためてやったろ?」
抱きしめると、わずかな彼女の鼓動もよく感じられた。
小さな、小さな胸の音。不規則に奏でるリズム。ゆっくりと下がっていくその音を感じながら、ルフィはアドを抱きしめ続ける。
「寒くて寝られねェってとき、このままウタが子守唄歌ってたよな。あれどんな歌だっけ……」
話しかけるルフィに、アドは何も答えない。
ルフィの体にもたれかかりながら、まだ何かをつぶやいている。すぐそばで聞き耳を立ててみるも、やっぱり聞こえない。
救えなかったことへの怒りの言葉だろうか。
置いて行かれたことへの恨みの言葉だろうか。
何度も繰り返されているにも関わらず、ルフィには聞き取ることができなかった。
「ンみなみのし〜まはァ〜……これじゃねェ。確かシャンクスから教えてもらったってウタが……なんだっけ?」
ピクリと、アドの体が動いた。
ルフィは言葉を止める。しかしアドを抱きしめたまま、離れない。
アドの手が、ゆっくりと伸びる。
それはルフィを通り越し、地面に転がる彼女の武器にも目もくれず、まっすぐに伸ばされた。
振り返ったルフィが目でその先を追う。
水平線の向こうに、沈みかけている太陽があった。
燃えるような夕焼けの日差しが、2人を赤に彩る。そうするとアドの目に、わずかながら光が宿った。
伸ばした手の先、手のひらを何かにすがるようにゆっくりと開いた。
「ぁ……」
「アド?」
ようやくアドの声が聞こえた。
絶望し呪詛を放っていた時とは違う、弱々しい彼女の声。
それはむしろ、子供の頃とそっくりだった。
「まって…………行かないで…」
絞り出すように、懇願する。
「おいて行かないで………」
目の端から涙が流れて、頬を伝った。
夕陽に照らされ、それはきらりと光る。
「お姉ちゃ………フィ……」
アドの目はルフィを見ていない。
水平線の彼方、何かを掴むように手を伸ばす。
そこに何かがあるように、追い求めていた何かがあるように。
失くした何かがあるように。
「………おとうさ……」
ルフィはアドを抱きしめたまま、水平線を眺める。
太陽が隠れていくにつれ、暗闇と寒さが2人を包み始めた。
それと呼応するようにアドの体は冷たく、彼女の奏でる音は小さくなっていく。
「………行か……な…」
糸の切れたマリオネットのように、アドの手が落ちた。
「……アド?」
ルフィは胸に抱いた幼馴染に呼びかける。
もう彼女からは何の音もしなくなっていた。
白い彼女の頬に、一筋の涙の跡が残る。
それは悲しみか、怒りか、後悔か、涙の意味はルフィにはわからない。
夢を誓い合った幼馴染の忘れ形見だった、その友達の頭をそっとなで、ルフィは彼女に顔を寄せる。
「おーやすーみあーかちゃーん……しーずかーにねー」
日差しが消え、何の音もしなくなった薄暗い瓦礫の世界で、ルフィの歌声だけが寂しく響いた。