潔絵
サッカー選手として活躍をすれば、正装で人前に出る機会もなくはない。少し前までの普通の高校生であった頃は、正装が必要とされる場でも制服で許されていたが、今はそうはいかない。辣腕を振るう青い監獄の女傑や、大抵のことにツテのある器用大富豪のお陰で、幸いにも体型に合わない不恰好なスーツ姿――スポーツ選手なので体型が一般人と違ってくるのだ。必然、市販のスーツだと似合わない――を晒さずに済んではいるものの、かしこまった場にはどうしても緊張してしまう。これがもし世界一を懸けた決戦の場であれば、緊張よりも昂りが勝るのだが。
一つ、息を吐く。そしてさあ行こう、と意気込んだところで潔は呼び止められた。
「潔世一」
そう潔のことを呼ぶ人間はいくつか心当たりがある。しかし潔はすぐにそれが誰かを判別した。聞き慣れた声だ。ある意味、それは潔が人生を変えることになったきっかけのようなもので。彼があの時潔を招ばなければ、あの時語らなければ、潔は燻ったまま人生を終えていただろうし、こんな場に立つこともなかったはずだ。
「絵心さん? 珍しいな。あんたは先に行ってると思ってた」
「ああ、少しな。それよりネクタイが曲がっている」
「えっ、うそ!? さっき確認したのに」
いつものように全身を黒で纏めた長身の男。絵心が壁に背を預けていた。相も変わらずぐりぐりとした目玉が、潔の首元を見遣り、静かに腕が伸ばされる。潔は絵心がネクタイを直してくれるのだと理解し、大人しくそれを受け入れた。
「これで良いだろう。苦しくはないな?」
「大丈夫」
器用にも人のネクタイをスムーズに結び直して、絵心の指が離れていく。
「お前は自分が思うより見られていることを自覚しろ。あまり隙を作るな」
「……ああ」
「はあ……ここまで面倒を見る義理はないんだがな」
そこまで言って、それから言葉を淀ませる絵心に、潔は珍しいこともあるものだ、と思った。この人は常々、舞台上の役者のように朗々と語っていたから。
「まあ良い。俺にも多少の情はあるということだ」
潔はその言葉の意味をあまり理解していなかったが、反射的に頷いていた。それを見た絵心はもう一度ため息を吐く。
「ともかく。お前を見るものにお前の価値を見縊らせるな」
「わかった」
「さあ行け、俺の原石よ」
絵心の声はどこか人を動かす力がある。絵心と話しているうちに、潔の中にあった緊張はいつの間にか消えていた。だからだろうか、反応が遅れたのは。普段よく言うのは才能の原石。それに対して今、絵心は何と言った?
「絵心、あんた今!!」
潔は絵心の去った方を振り返るが、そこにはもう誰もいない。はあ、と今度は潔がため息を吐いた。この服装をするに至った用を先に片付けてしまおう。後で絶対に問い詰める。そう決心して。