溶けていく思い
「…痛いわ」
彼女の声が耳に刺さり、ようやく我に返る。
気づけば、あの不愉快な思いをした場所から随分と離れていたようだ。
…そもそも、何故俺は不愉快な思いをした?
彼女が他の牡(おとこ)と居る光景なんて、珍しくも何ともない。
いちいち目くじらを立てていたらキリがない。
なのに、あの光景を目にした途端。
それを振り切りたくなってしまって、衝動的に彼女の腕を掴んで走っていた。
「離して」
頭の整理がつかないまま、言われるがままに手を離す。
握られた跡のついた腕を、もう片方の手で包み込みながら、彼女はこちらを見つめる。
美しいと言う言葉が陳腐に思える程の、白く、美しい肌。
そんな肌に、痛々しい跡が残ってしまった。
痛い思いをさせたこと、嫌な思いをさせたこと。
様々な後悔が後になって押し寄せてきたが、気の利いた言葉を続けることは出来なかった。
俺の後悔の念を察するかのように、彼女が唇を指で塞いできたからだ。
「嫌な思いはしていないわ。少し驚いただけだから、そんな顔をしないで」
いきなり腕を掴まれたら、その勢いのまま走られたら、それは驚くに決まっている。
しかも、跡が残るほどの強さで、だ。
「そっちじゃないの」
彼女の言葉は、白い淡雪の様に溶けていく。
…掴みどころがない。
「貴方にそんな感情があったなんてね」
…そんな感情?
そう指摘されても、正直ピンとくる物がない。
首を傾げていると、彼女は静かに、ゆっくりと微笑む。
「いいのよ、わからなくて」
──大きな身体で…何処か子どもの様な…そんな貴方を好きになったのだから。
彼女の言葉は、闇に消えていった。
胸の中に芽生えた、この感情の答えを知るのはもう少し、後になりそうだ。