満潮

満潮


 菊花賞出走直前、控え室にて翡翠色の髪を揺らすアーキペラゴは己のトレーナーと向かい合っていた。


「さて、トレーナーさん。今日まで僕と一緒に頑張って来た訳ですが……どう? 今回も緊張してる?」


 アーキペラゴはトレーナーの横原を小突きつつ、揶揄う様な声音で問う。思い出すのは皐月賞の直前の、実際に走る自分より緊張した面持ちのトレーナーの様相。その時はお互いに初めてのG1だったが、まるで初めてのおつかいに行く子供を見送る様に忙しない様子を見せられて寧ろアーキペラゴの方が冷静になっていた。

 そして冷静が故に発揮された実力にて────惨敗。それまでも『強い競争』をして来た訳でも無く、「まあこんなものか」と思い、その次のダービーにて、またしても敗北。走り終えて思わず自分で自分に溜息を吐く凡走に終わってしまった。

 だからこそ、最後の一冠たる菊花賞には負けたく無いと夏に鍛えて鍛えて鍛え上げたのだ。そうトレーナーは皐月賞の頃とは打って変わり自信満々にアーキペラゴの頭を撫でる。


「ありがと、トレーナーさん。じゃあ、行ってくるね?」


 こそばゆげに自身の頭を撫でる手から逃げるアーキペラゴは手の代わりに尻尾を揺らしながら控え室の扉に手を掛け……そして、後ろからトレーナーに声を掛けられその動きを止めた。


「?」


 思わず首を傾げつつトレーナーの方へと振り返る。そして……


  ──怖い?


「……っ! ふふ、バレてました?」


 まるで悪戯がバレた様にアーキペラゴはバツの悪そうな表情をする。彼女にとって現状、三冠の道は敗北の道。先行の走りで前に突き放され、後方に追い抜かれる無力感は心に棲みつき、夏を超えた彼女の首にダラリとぶら下がっていた。

 トレーナーにとって彼女が精神的に何かを抱えている事自体は分かっていた。しかし、それを取り除く一言が今まで思い付かなかった。しかし、それでも肉体は完成させた。


 ──君には皐月も、ダービーも短過ぎた。だから、不安に思わなくて良い。


「……!」


 そして、その精神を完成するのは……


 ── 〝長く〟走れば、君が勝つ。


「……うん、そうだね。見せ場は長い方が良い。特等席で見守っててよ、トレーナー!」


 今、この瞬間。アーキペラゴの全てが仕上がった。


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