混沌の幻想曲
混沌。それはとある学園を象徴する言葉。
だが今のキヴォトスでは、とある高等学校を中心とした大事件を差す。
それを快く思わない者がいた。混沌の名は、ゲヘナにこそふさわしいと。
「ちっ、これもダメ…!」
「おおおおおおおおっ!!!!」
アビドス高等学校の校庭。アビドス風紀委員長空崎ヒナ vs ゲヘナ風紀委員の戦いは熾烈を極めていた。
アコの的確な采配、チナツのバックアップ、そして助っ人である便利屋68社長アル達の尽力もあるが、何よりヒナを驚かせていたのは、
「ここだァッ! 喰らえ!!!」
「まだよ! その程度見えてる!!」
銀鏡イオリ。彼女はこの戦いの中で急激に成長していた。元々素質はあった。キヴォトス最強クラスの集団で切り込み隊長をやっているのだ、相当な武力を持っている。
だが今の彼女の成長はなんだ。この戦い自体、比較的機動力と攻撃力に優れるイオリを主軸としていたものだ。ヒナ相手にある程度の善戦は見込んでいただろう。だが彼女の牙は徐々にヒナへと近づいている。
当然、まだまだ遠い。風紀委員全体がフォローしてようやく首元を視界にいれた程度。だが本気のヒナを相手にできるものがこのキヴォトスにどれだけいる? 彼女はこの短期間にその領域へ足を踏み入れようとしているのだ。
「へばったんですか委員長! まだまだ私は……私はいけるぞ!!」
ランナーズハイに突入したのだろう。言葉通り彼女の動きはさらにキレを増す。
「まさか! 私がこの程度だと思ってるのなら心外よ! その砂糖よりも甘い考え、熱しなおしてあげる!」
二人の白い突風が砂を巻き上げ強烈な衝撃を産む。だが周囲の風紀委員達はひるまない。
「次は右側側面から援護! 第8部隊は三列に組みなおしなさい! 波状攻撃で攻撃を妨害!」
ちっ、と再びヒナは歯噛みする。これだけ混沌とした戦場でなお的確な指示と実行。自分が育ててきた風紀委員の力を……いや、その底力を実感していた。
何より目の前の後輩は、このままなら予想を超えて強くなるだろう。
(ああ……こんなことで良かったのかしら)
日々、自分が動かねば解決しない事態。次年度への不安、そんなものを抱えていたのに、目の前の彼女達はあまりにも強い。自分はそれを信じていなかったのだろうか?
「動きが鈍ってるわよ、らしくないわ?」
瞬間、的確なヘッドショットがヒナを射抜いた。
陸八魔アルの狙撃。ここまで散々わけがわからない場所から放たれ続けていたが、とうとうクリティカルヒットした。
だがヒナはこの程度で止まらない。止まるはずがない。だが
この時、彼女は見てしまった。自分を追い詰める風紀委員と
屋上に上がった戦闘の爆発を。
それは小鳥遊ホシノの下に敵が攻め込んだことを示していた。
「……ッ! 全員、止まれっ!!!」
「!? 止まりなさい! 陣列は維持!」
まずはイオリが違和感を覚え、次いでアコが止める。
「あ、あああ……うあぁぁあ……!」
狙撃により体勢を崩したヒナが、立ち上がろうとした瞬間に呻き、蹲った。
『………………私はいつでも撃てるわ。号令は貴方が出しなさい、天雨アコ』
アルは一言だけ告げ、無線を切った。
彼女は自由にしろと言ってある。その上で先ほどの言葉を掛けた理由を嚙み砕き、アコは眼前のヒナに目を向ける。
ヒナの胸中は、先ほどまで晴れ空だった。
このまま彼女達に負けても構わないと思うほど。
その心の闇に【砂漠の砂糖】は悪魔の囁きを差し込んだ。
──私は投げ出した。私は投げ出した。私は投げ出した。私は、私は私は私は私は堕ちた。今自由に羽ばたいている? 違うこれは放棄だ、逃避だ。解放感なんて嘘だ、祝福なんて嘘だ、でもあの人は悪くない悪いのは私勝手に堕ちて楽園とみなした愚かな女が私なの私が悪いの朝が怖くなったなんて嘘、なのにあの人が危機にさらされていると気づいただけで、怖いのが止まらない、怖いと思う感情を塗りつぶしていただけで、砂糖の装飾が剥がれたら私なんて私なんて私は、あああああああああああああああああああっっ!!!!!!!
ヒナの思考を絶叫と絶望が支配する。どこまでが心の声で、どこまでが実際に出した声かはわからない。
元々こんな感情があったのかもわからない。どこまでが作りもので、どこまでが本音なのかもわからない。
ただ周囲の風紀委員達は動きを止め、他の戦場の音が遠くなったような錯覚すらある。
禁断症状。
【砂漠の砂糖】は中毒性が強い。ヒナは特に抵抗なく砂糖を摂取していた方だ。本人の身体の強さも、そして堕ちた経緯も含めて摂取量とそれに伴う禁断症状は特に強い。
だがそれは長期間接種していない場合だけのはず。出撃前には冷静さを保つため【砂漠の塩】を用いた飴を服用していた。理由はただ一つ。風紀委員達が想像以上に粘り、ヒナを消耗させていた。それが禁断症状発生までの時間を早めていたのだ。それは本人含めて誰一人として知らない。ただ、空崎ヒナが、彼女達の敬愛していた風紀委員長が、麻薬の中毒症状で苦しんでいるという、残酷な現実が眼前にあった。
「ヒナ、委員長……」
ここには覚悟を決めてきたアコでさえ、言葉を詰まらせた。
彼女はすんでのところで飲み込んだ後悔や絶望を戻さずにすんでいたが、この状況にどう切り込むべきか判断付かずにいた。
少しの静寂。
少女の嗚咽。
戦場の空洞。
「…………キキキッ」
そこに、再度混沌を齎すのは。
「随分としなびた姿をしているじゃないか、"アビドス"風紀委員長」
万魔殿の主。羽沼マコト。
「なに、を……しにきたの……!」
「ほーぅ、私の顔を見て覇気を少しは取り戻したか?」
眼前のヒナは確かに弱弱しい。だがそれでもマコトなぞ一捻りだろうに、彼女は動けない。それを見越してマコトはイオリよりも前に出ている。
『羽沼マコト。あなたは他のアビドス風紀委員達の対処にあたっていたはず。何故指揮官単体でこちらへ?』
敢えてヒナにも聞こえるようにするイオリ。特に意味があっての行動では無いが、それが功を奏した。
「キキッ、理由なんぞ1つだろう。あちらが片付いたからまだチクチクやってるこちら側を煽りに来たんだよ」
ヒナの表情へ絶望がさらに上塗りされる。アビドスに来てから彼女を慕ってきたものとて大切な仲間だ。ヒナの生来の気質はすでにアビドス風紀委員達から忠誠を誓われるほど。そんな仲間達がもう蹴散らされた? そんなバカなと頭の中で反芻する。
「で、来てみればご覧のあり様だ。最強の風紀委員長が情けない姿を晒していれば、嫌味の1つや2つ言いたくなるだろう?」
『それ以上は──!』
「キキキッ、じゃあ1つ有益な情報をくれてやろう。アビドス風紀委員に関してだ」
マコトはヒナに突きつけるようなトーンで語る。
「こちらに来てから腹心の1人として活動してた黒舘ハルナだがな……」
「!! 彼女に何をしたっ!」
「睨むな睨むな。私は何もしてない。ただ、美食研究会の奴らが必死に説得したのが効いたのか──」
「自力で中毒症状を振り払って、昔の仲間達の下へ戻ったそうだぞ? 良い話じゃないか! キキキッ!!」
ヒナの目が見開かれる。その感情は読み取れない。
仲間が裏切った絶望か。それとも仲間が、【砂漠の砂糖】の誘惑を払いのけた事への羨望か。
それはもうヒナ本人すらわからない。その様子を見て、マコトは特大のため息をつく。
「でだ、お前は何をやってるんだ。ハンパ者め」
「だ、誰が……!」
「お前以外に誰がいる。ここにいる連中はお前の事を一心に思ってきたんだろう。それも涙ぐましい話だな」
改めて見渡す。誰も彼もが、極悪人空崎ヒナではなく風紀委員長空崎ヒナとして見ている。ただもたれ掛かる者の目でさえない。
「空崎ヒナはその程度か。いや、アビドス風紀委員長はその程度、の間違いだったかな? キキッ」
わからない。今この目の前にいる腹立たしい存在の思惑がわからない。
ただ、私の中で何かが叫ぶ。
この口を黙らせろと。
お前に私の何がわかるのかと。
お前に、私達風紀委員の何がわかるんだと!
「部下の働きに応えない上など、飾りにも劣るからな! お前は砂糖人形程度だってことだな!」
「黙りなさい!!!!!」
朦朧とする視界の中、声の方向に向けて発砲する。
「おっと危ない。なんだ、まだ立てるじゃないか!! サボりはいかんぞサボりはなあ! キキキキッ!!!」
ああ、癪に障るけどその通り!
私はまだ立たなきゃいけない!
みんなの為に、そのみんなが誰なのかもう今はわからないけれど、足を折ってはいられない!!
今は、みんなと、小鳥遊ホシノの為に、誰に向けていいかもわからない銃口を向けて戦わないといけない!
これはきっと狂気。砂糖が見せた混沌の夢。でも、それでももう構わない。すでに私は堕ちた身。なら、せめて舞台で踊り続けていないと……きっと、自分にも顔向けできないわ。
「総員! 改めて気を引き締めろ!! ……きっと、さっきよりも手ごわいぞ!」
「改めて陣列を組みなおしなさい! ここからこそが、私達の分水嶺になります!」
ヒナが立ち上がると同時に風紀委員達に檄が飛ぶ。
それを見て、いつの間にかアコのところまで来ていたマコトは愉快そうに笑う。
「そうだ。お前達はそれでいい。キキッ」
「……あなた、何のために」
「ん? 私が単なるボランティアをすると思うか? 色々目的があってな」
「だから問うているんです」
最重要課題はヒナ攻略だが、この狸を放置するのは同じぐらい気が休まらない。
「そうだな……。"シャーレの先生との賭けに、お前らが負ける事を期待している"でいいか?」
「!? 何故それを……っ!」
「おいおい、この羽沼マコト様の情報網を舐めてもらっては困るな」
流石のアコも同様を隠せない。今は思考リソースを割いている暇は無いが、いずれ調べないと──!
この時点でアコは気づけなかった。マコトの狙いはどちらかが倒れるではなく、シャーレの先生がホシノの身柄を確保することにあった。その方が戦後処理が楽になると見込んでの、彼女なりの賭けとも言える。
「ねえ、あっちの戦場にはウチの社員がいたけど。貴方まさか……」
次は剣呑な雰囲気の陸八魔アルがやってきた。社員思いの彼女の事だ。万が一捨て駒にされたと言われればこの場でマコトに何をするかわからない。
「ああ、その事か。なら──」
「まだ全然片付いてないぞ。あっちは。ウチのイロハと、鬼方カヨコだったか。あの二人に任せてきた。戦力だけはいっぱしだから大丈夫だろうよ」
「「はあ!?」」
アコとアルは二人揃って声を上げる。
「五月蠅いな……。ああ、美食研究会の話なら本当だぞ。真実は適度に混ぜるのがコツだからな、キキキッ」
そしてマコトはアビドス校舎の方へ向かう。
「あなたどっちへ行くのよ!」
「言っただろう、私にも目的があると」
「……構いません。私達の邪魔をしないのならそれでいい。戦闘を続けますよ、陸八魔アル。社員が心配なら、ここを片付けてからにしましょう。どうせ、ヒナ委員長は下手に見逃してくれません」
「……もう、わかったわよ!」
戦場が再度加熱するのを背に、マコトは校舎前までたどり着く。
彼女の単体戦力は高くない。得意の情報戦もここではどこまで有効か。
だがそれでも歩みを止めることは無い。
「キキッ……さあ、アビドス。返してもらうぞ、私のイブキ(大切なもの)をな」
自由と混沌。それがゲヘナ学園。
悪魔達は砂塵の中、それぞれの思惑の中踊り続ける。
自分が一番欲しいものを手にするために。そこには格式ばったルールもマナーも無く。ただ、ひたすらに。