深夜の訪問者

深夜の訪問者


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 静まり返った長い廊下を白の外套に身を包んだ男が歩く。

 時刻は既に夜更け——空は暗く、大きな窓の外は暗闇に包まれ、ポツポツと一定の間隔で設置された明かりだけが、広い廊下を照らしていた。

 迷いのない足取りで歩みを進めていた男が、とある部屋の前で足を止める。

 他の部屋よりも一段立派な造りをした扉は、この扉の奥が貴人の部屋であることを物語っていた。

 扉の前で夜警をしていた初老の女性が、鋭い眼差しで男に問いかける。


「……このような夜更けに先触れもなく、いったい何用です。ここがどなたの部屋か知らぬはずがないでしょう」


 男の不敬を咎めた女性は、この部屋の主に仕える世話役だ。

 整った身なりで背筋を伸ばし、凛と立つ姿からは彼女の生真面目な内面が滲み出ていた。

 部屋の前を守る世話役の厳しい言葉にも男は怯むことなく用件を告げる。


「どいてくれ。あの方と話がしたいんだ」

「お休みを妨げることは罷りなりません。わたくしがご伝言を承ります」

「それでは意味がない」

「火急の用件でないのでしたら日を改めてください」


 毅然とした態度を崩さない世話役に痺れを切らしたのか、途中から男の声に苛立ちが混じり始める。

 押し問答になりかけたところで、溜息を吐いた男が頭を振って行動に出た。


「日を改めようにもその機会がないから、こうしてお目通りを願ったんだ。……悪いが通してもらう」

「困ります! お待ちを……」


 目を吊り上げて男を押し留めようとする世話役の制止を振り払い、扉をノックした男が部屋の中にいる人物に声をかけた。


「夜分に失礼いたします」


 やや間があって、重厚な扉が開かれる。

 同時に、不機嫌そうな少女の声が静かな廊下に落ちた。


『………………君か。用事は?』

「拝謁の機会を賜りましたこと心より感謝申し上げま……す……」


 恭しく頭を垂れ、感謝を述べようとした男の言葉が途中で止まる。

 それも当然のことだ。

 扉を開けた少女が身につけていた衣服はシャツ1枚、無防備な白い肌が夜闇の中で目を惹いた。

 男の背後にいた世話役が、主のあられもない姿に悲鳴を押し殺す。


「いけません! そのようなお姿で人前に出られては! お父君がこのことを知ったらどう思われるか……」


 物心つく前から仕える世話役の諫言に、ただでさえ機嫌が悪かった少女はいっそう刺々しい雰囲気を漂わせて眉を顰めた。

 うんざりした態度を隠さず、溜息交じりで部屋の壁にもたれかかりながらじっとりとした目で廊下に立つ二人を見据える。

 長い黒髪がさらりと肩に流れた。


『服装なんてなんだっていいだろう。それより……』


 少女は冷ややかな蒼い瞳を動かして、己の部屋の扉を叩いた男に視線を合わせる。

 普段は隙のない衣装に身を包んだ少女の露わになった肢体を前に、男はものの見事に硬直していた。

 獣が唸るように少女が低く問いかける。


『二度も言わせないで。用事は?』

「ッ! 少し前にお怪我をなさったと耳にしましたのでその後のご体調は、と……」


 少女の問いにハッと我に返った男は、目のやり場に困ってうろうろと落ち着きなく視線を泳がせながら、答えを絞り出した。

 男の声は少し裏返っていた。

 自分の身を案じる言葉をかけた男に、胸の前で腕を組んだ少女は冷たく言い放つ。


『問題ない。とっくに癒えてる。それは私の晩酌を妨げるほどの用件なのか?』

「……申し訳ございません」

『用は済んだ?』


 謝罪の言葉と共に、深く頭を下げた男のつむじを睥睨し、少女は淡々とした調子で応対を終えようとした。

 その目は「早く晩酌の続きに戻らせろ」と訴えている。

 しかし、勢いよく顔を上げた男は少女の様子に気付かず、部屋に戻ろうとする背中に咄嗟に呼び止める声をかけた。


「あ……。その! よろしければ、貴女の目でご覧になった現世や瀞霊廷の様子を、お聞かせ願えませんか?」

『…………』


 廊下に背中を向け、扉を閉めようとしていた少女がぴたり、と動きを止める。

 背中を向けたまま、少し考えるように間をあけて、小さな溜息と共に頭だけで廊下に立つ男を振り返った。

 顎をくいっと動かして部屋の奥を示す。


『……仕方ないな。入って』

「お待ちください!」


 少女の提案に、たまらず声をあげたのは世話役の女性だ。

 このような夜更けに主に好意を抱く異性を部屋に立ち入らせるなど、世話役の女性にとっては到底許容できないことだった。

 それも、主が素肌を晒した無防備窮まる恰好をしていれば尚更だ。

 しかし——


『煩いな。晩酌の途中だったんだ。部屋で酒を飲みながらでも話はできる。……私が決めたことに口を挟むのか?』


 少女は人の感情に疎く、ましてや男女の情などまるで理解していなかった。

 目の前の男から向けられる好意も、心配も、欠片ほども伝わっていないのだろう。

 彼女の思考を占めるのは、「早く晩酌の続きをさせろ」というただ一点のみだ。

 これ以上、真夜中の廊下で騒いでこの事態が露呈することになれば、主の外聞に傷がつく——そう考えた世話役は一度きつく瞼を閉じ、再び目を開いた時には先刻までの動揺は鳴りを潜めていた。


「……いえ。差し出がましい事を申し上げました」


 その様子を確認して目を細めた少女は、再び男に視線を戻した。


『で?』


 話を聞くか、日を改めるか——その一言で選択を促した少女に、少し肩を揺らして息を呑んだ男は、出された選択肢から答えを選んだ。


「し、失礼します」


 扉の向こうへと消えた二人を見送って、世話役の女性は沈痛な面持ちで額を抑えて呟いた。


「……早くご報告に上がらなくては」



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