海の導き
暗い海に、飲まれたはずだ。
「───、────!」
「保──員を──!」
耳元の喧騒が遠く聞こえる。
開いているのか、閉じていないだけなのか、ぼやけた視界はぶれた天井を映す。先程まで何をしていたんだったか、とどうにも鈍い頭で考えを巡らせようとするが、何故だろうか。眠気に逆らえない。
「ル──、おい────!!」
「なんで──溺れて───意識が───!!」
「心拍は───!」
ぐい、と顔を横に傾けられた上に口の中へと無遠慮に指を突っ込まれ、意識が引き戻される。何をするんだと手を振ろうとして、ぴくりとも自分の意思では動かせないことに気付く。
「ァぐ、──ッげほっ!」
咳とともに逆流してくる液体は塩辛く、海水であると理解した。何か言おうとしても喉が動かない。思考はまだ、霞がかかったまま。
「おい──!────ルッチッ!!」
傍にある体温が底冷えた体に熱を移す。動揺と焦燥の詰まった声音で叫んでいる誰かの声が、酷く懐かしいように感じてしまって。
そのままどうにも安心してしまったらしい。急速に遠のいていく意識に従うままに瞼を閉じた。
─────
目が覚めたら保健室だった。
つい最近も同じようなことがあったなと思いながらも大袈裟なまでに被せられた毛布をとっ払って体を起こし、状況の把握とばかりに周囲を見回した。
新世界中学校の保健室、ベッド横の生徒会顧問は椅子に座って船を漕いでいる。
窓から見えるグラウンドでは生徒たちが走り回っている、いつもの昼休みの光景。……帰ってきた、のか。帰れたのか。
ぼう、とそんなことを考えていれば寝こけていた先生──スパンダムが肩を揺らし、目を覚ました。
「お?おお、起きたかルッチ!ったく心配させやがって、報告もなしに何日もいなくなったと思ったら死にかけてるとか、マジに洒落にならねェ」
「…………」
じぃと矯正器具付きの顔を見つめる。何も言わずにそうしていたのが心配になったのか、はたまた不気味だったのか知らないが、スパンダム先生は勝手にわたわたと慌てだした。
「……どうした?まだ体調悪いか!?水いるか!?」
「いや……先生の面を見て安心する日が来るとは思わなかったもので」
「ンだとォ!?」
「冗談です。半分。あと水は下さい」
「もう半分は本心ってか!?そりゃテメーらに比べたら情けねえだろうけどよ!」
やかましい。保健室に置くなこんな奴。
くらくらと揺れる頭に響く声で叫び散らす先生からペットボトルの水を受け取って、ゆっくりと流し込む。中身は温く、微かに痛む喉に引っかかることも無く胃に落ちる。
おれがひと心地ついたことを確認してからスパンダム先生は口を開いた。
「あー、ルッチ。何があったか話せるか?お前が溺れるまでの経緯とか、心当たりとか」
「、いや……その、前に。どうしておれはここに?」
「覚えてねェのか?お前、生徒会室に何もない空中からいきなり落ちてきたんだぞ?訳の分からねえ状況で役員共はパニックになるわルッチはびしょ濡れで意識もねェ、死にかけてるわで、もう大変だったんだよ……」
「空中から……おかしいですね」
久しぶりにマスクで覆われていない顎に手を当てる。意識が波に飲まれる前のことはハッキリと覚えていた。
「おれは確かに、海に身投げしたはず、なんですが」
「…………み、身投げェ!?!?」
素っ頓狂な声を上げて立ち上がった先生が、信じられないといった顔でこちらを凝視している。なんだと思って眉を寄せてから、この言い方では自殺しようとしたと捉えられることに気付く。もう自分は普段通りであると思っていたが、自覚症状がないだけでまだ頭は本調子ではなかったのか。
訂正しようと口を開くよりも先に、先生が喚き始めた。
「ヴァッカ野郎!!おま、お前死ぬつもりだったのか!?自殺!?お前がァ!?!?」
「ちょ、うるせェ、静かにしてくださ、」
止めようと声をかけた瞬間、バァン!!!と音を立て保健室の扉が勢いよく開いた。
「どーいうことだァテメェルッチ!?」
「詳しく聞かせてもらわんとなァ!?」
「何をそんなに思い詰めてんだよ!?」
……面倒なのが、増えた。
上から順に副会長(狼)、副会長(キリン)、生徒会の自称まとめ役。元からよろしいとは言えない人相をより悪化させた同級生達はズカズカと押し入り、スパンダム先生を押し退けるようにベッド横へと陣取った。
「ハットリも置いてどこ行ったかと思えばッ!テメェらしくもねえだろ、馬鹿野郎!」
「ルッチ、説明せんか。何故死のうとした?」
「何か悩みでもあんのか?相談乗るからよォ……死ぬなよルッチィ!」
三者三様、口々に詰め寄られ、鬱陶しさと困惑に頭を抱える。いや間違いなく己の失言のせいではあるのだが。
はァ、と溜め息を吐いて、四人の顔を順番に見回す。
「誤解だ、早とちりバカヤロウ共……話すと長くなるが」
そう前置きをして、かいつまんでの経緯の説明に入った。
─────
「それでまァ……最終的に、帰るには海に飛び込むしかないと思っただけだ。死のうとなんざ微塵も考えちゃいねェ」
話が進む事に四つの顔は激情から困惑へ、困惑から呆れへ。
「紛らわしいんだよヴァーカ!!」
「つか帰れるっつー確信ないなら自殺と同じだ狼牙!!」
ぎゃいぎゃい騒ぐ連中の声を聞きながら、もう一度深く溜め息を吐いた。
……ジャブラの言う通りである。海へと飛び込んだところで本当に帰れる確証などなく、むしろ能力者である自分はそのまま藻屑になる確率の方が高かった。それでもいいと、本気で思っていた。そうでもなければ身投げの前に靴を脱いで揃えたりはしない。
実際に戻れて、此奴らの顔を見てようやっと、死ななくてよかったと安堵している自分がいる。
「…………心配かけて悪かった」
ぽろ、と口から溢れた言葉に、おれらしくもないな、と自嘲する。
「ルッチが」
「あのルッチが」
「しおらしい、だと……?」
「明日は雨が、いや槍でも降るんじゃねェか!?」
顔を見合わせた馬鹿どもは好き勝手言いながらけたけたと笑い出す。通常運転に戻ったのを眺めていれば、ふわりと視界の端に白が舞った。
「クルッポー!」
開いた窓から風とともに飛んできて、定位置の肩に乗った鳩が鳴く。慣れた重さ、いつも通りの感触。
「……ああ、ただいま」
少しだけ、泣きそうになった。
──────────
「おい!見つかったか!?」
「全く、手掛かりもない!どこ行ったってんだ、ヒョウ太……!」
日は高く登っている。普段であればこの時間帯は職人達が腕を振るっているはずのガレーラは、今この時ばかりは皆が出払いがらんとしていた。
雑用の少年が夜の間に行方不明になったのだ、と。
気付いてすぐに、パウリーを始めとした社員たちは必死になって捜索を始めた。
ヒョウ太が行きそうな場所を、荒くれ者共の溜まり場を。虱潰しに駆け回って心当たりを誰かに聞いても、誰も彼を見掛けていないという。いなくなったのが自発的ならまだいい、だが誘拐でもされていたら?そう思えば気が気ではなく、不穏な想定が頭に過る。
「無事でいてくれよ……」
募る不安は膨らむばかり。そんな中、そういえば今も海賊が港に船を泊めているぞと誰かが言い出したのを皮切りにして、各々が武器を確認し海へと走った。
停泊している海賊船に乗り込み、半分脅すように問い詰めるが、船員は知らないと首を横に振る。嘘は付いていないらしい。
だが。
ふと、パウリーが胸倉を掴んで揺らしていた相手とは別、いかにも下っ端であろうという見た目の男がぽつり、「そういえば」と呟いた。
「ッおい、心当たりがあんのか!?」
荒々しく手を離し、男を睨めつける。その眼光に怯みながらも、思い出すようにたどたどしく答えた。
「ひ、あ、ありますあります!長い黒髪の男ですよねっ?あの、昨日の夜、あっちの埠頭に向かっていくのを見掛けて……!」
パウリーは顔を顰める。ヒョウ太がそんなところに行く理由など考えつかないのだから。
しかしこれが初めての有益な情報である。直ぐに船から飛び降りて、足を埠頭へと向けて走った。
海へせり出た石造りの橋の先。
そこには。
ひゅ、と喉が鳴る。最悪よりも最悪な想像が、頭にこびりついて離れない。
先程の足取りは見る影もなく、よたりとそれに───綺麗に揃えられた靴に近付く。
見間違うはずもない。
身一つでガレーラに住み着いた少年へ、他ならぬパウリーがプレゼントした靴。
「これ、ヒョウ太の」
零れ落ちた声が震える。視界の中で穏やかに揺れる波間の奥に、少年の姿を幻視した。
頑なに話さなかった元いた場所のことも、隠していたのだろうが一度だけ見てしまった寂しそうな表情も。何故こうなったのかと思考を回すほど、見逃してしまったサインが積み上げられていく。
「うそだ、そんな」
もういない、もう遅い。
頭では分かっていても、否定の言葉しか吐けなかった。