波が朝を連れてきた日
ざざあ、ざざあ、とさざなみが聞こえた。どうしてそんな音がと考えて、そういえば昨日の夕方海の近くに辿り着き、そこで一夜を過ごすことになったのを、4号は閉じた瞼の裏で思い出した。
普段食べられない海の魚をたくさん釣り上げて喝采を浴びたことや、夕飯後も遅くまで海を写生し続けるノレアを、5号が車に引きずり込んでいたことも。ノレアは寝入る瞬間まで5号を睨んでいた。
目を開けると、青くて淡い朝の光に満たされた車の天井が目に入る。太陽が出ているから時刻は午前五時程だろうか。
とにかく広さを確保したくて選んだ型落ちオンボロのボックスカーは流石に寝る時は狭く、10人乗りの車内に五人と旅の荷物がすし詰めになっている。端で長身を縮めて丸まったスレッタ、同じ毛布を分け合い姉妹のように寄り添うソフィとノレア、そんな二人に押しのけられ窮屈そうにしている5号を順番に見て、今日最後に起きるのは誰か、4号はぼんやり考えた。いつも5号とソフィがいい勝負をしている。
四人を起こさないよう4号は静かに車を出た。車が停まっているのは小高い丘の上で、少し下に昨晩釣りをした岸や波が打ち寄せる磯が見える。潮風が髪を撫でて、時々足首を柔らかな草が掠めた。つんとくる潮の匂いは慣れないが嫌いじゃない。本に没頭するように、4号はその感覚一つ一つを深く確かめながら歩いた。
「4号」
自分と同じ声が背後から聞こえて、寝癖をつけたままの5号があくびをしながらやってきた。今朝の早起き競争は番狂わせだったらしい。
「早いね。珍しい」
「ね。なんでだろ?はいコレ」
投げ渡されたタッセル付きの耳飾りをキャッチする。 ふたりして黙々と耳飾りをつけたあと、話をするでもなく海を眺めていた。
海というのはこんなに見ていて飽きないものなのだな、と4号は思った。穏やかなようで絶えず変化し、霞む水平線の向こうに顔も知らない人間が暮らしている。いつか、自分たちはそこにも訪れるのだろうか。いつまでもそんな物思いに耽っていられる気がした。
「4号って、意外と本の虫でもないの?」
不意に5号が話を振ってきて、4号は水平線から意識を戻す。
「どうしてそう思うの」
「んー、周りで誰が何をしてても、本読んでるタイプだと思ってたんだけど。一緒に旅してみたら、何でも結構乗ってくるから」
「……前者の見立ても、間違ってはいないよ。そうしていれば何も見ないで済んだから。」
今までの読書は本が好きというより、自分の世界に閉じこもる為のものだった。そこから外は求めても手に入らない。手に入らないものを見つめ続けて焦がれるよりも、心を閉ざした方が穏やかでいられたからだ。
「今は……新しいことを知って、触れるのが、純粋に楽しいと思える。
……スレッタ・マーキュリーはぼくをよく物知りだと言ってくれるけど、そうでもない。
ぼくは……自分が本が好きだってことにも、最近気付いた。」
「へぇ……」
感覚は鋭い癖に、自分のことにも世界にも疎い奴なんだなと5号は思った。あまり自分のことを話さないのは、心を閉ざしている以外に4号自身も自分のことをよく分かっていないからかもしれない。
そんな4号が自分のことを話してくれるのが5号は少し嬉しかったし、改めて彼と自分は全く似ていないなと思った。顔以外。
「……スレッタ、スレッタ・マーキュリーか。
……彼女、そろそろ起きるかな。」
「あー、いつもなら君の次には起きてるしね。」
思い出したように車の方に振り返る。雪国のメーカーが作ったという丸みを帯びた古式ゆかしいシルエットが、朝日に照らされて一層かわいらしく佇んでいた。
「絵になるねえ。ノレア描きたがるかな」
「きっと」
「コーヒー、淹れるけど飲む?」
機嫌よく提案する5号に4号がこくりと頷く。車へ戻るふたりの足取りを追うように、5号の鼻歌が辺りに響いていた。
「おはようございまふ……」
予想通り、コーヒーの準備を始めてすぐに眠い目を擦ってスレッタが起きてきた。車の傍らでコッフェルを用意する5号に、4号は流れるようにココアの缶を渡す。スレッタはコーヒーが飲めない。
「おはよう」
「おはよスレッタ。寝癖ついてるよ」
「……君もだけど」
「えっ、言えよ!」
ふたりのやりとりに、ふわふわの長い赤毛を梳きながらスレッタが笑った。
「ソフィとノレアは?」
「まだ寝てます。ソフィさんはすっごくはしゃいでたし……ノレアさんは、こっそり夜中に起きて描いてたみたいで……」
「アイツ……」
夜の海で何描いてたんだ、何も見えないだろ……呆れて呟く5号の手元から、コーヒーとココアの香りが立ち昇り始める。
「じゃあ朝ごはんは二人が起きてからにしようか。
その後は……どうする?今日一日ここで遊ぶ?」
「そうですね。ノレアさんもまだ絵が描きたそうですし」
「ぼくも読書がしたいけど……ソフィ・プロネは飽きるかもしれない」
「はしゃぐ割に飽きが早いからな、ソフィは」
海飽きた!別のとこ行こう!と駄々をこねるソフィを想像して苦笑した5号が湯気の立つマグカップを配る。三人で話し合った結果、今日は移動せずここで休むことになった。ソフィはノレアがどうにかしてくれるだろう。
飲み終わったコーヒーを置くと、4号はクーラーボックスを持ち上げた。
「朝食までに魚を獲ってくるよ」
「い、今からですか!?」
「昨晩は視界が悪くて近づけなかったけど、磯のあたりが気になる。漁業権も確認したけど問題ない」
「これじゃ漁師の君だな」
あ、じゃあ……スレッタは指先を合わせて明るく言った。
「私も一緒に行って良いですか?お散歩したいし、それに……エランさんが海に落っこちちゃっても私なら助けられるので」
「縁起でもないなあ」
「いいよ。一緒に行こう」
了承すると、スレッタは嬉しそうに髪を括り始めた。4号も釣竿や網を持ち出し、二人は磯に降りる。お喋りをしたり、釣りをしたり──海に釘付けになって落ちそうなスレッタにヒヤヒヤしたりしながら、食べるものを集めた。獲れたのは4号が小さな魚を三匹、スレッタが小さな蟹を二匹。磯を引き上げて戻る途中、丘の上から機嫌が悪そうなソフィの声が降ってきた。
「ね〜まだ?海見るの飽きたよ」
「まだ。ソフィ、暇なら缶開けるの手伝ってくれよ」
「え〜ヤダ」
「じゃあノレアと遊んできたら?」
「ヤダ、邪魔するとノレア怒るもん」
「……ノレア〜、その辺にしといてソフィと遊んだら?」
「話しかけないでください集中してるので」
朝食に使う缶詰を開ける5号にソフィが絡み、ノレアがスケッチに励んでいる。何から何まで今朝想像した通りの光景に4号は思わず笑ってしまって、それを見てスレッタも笑った。
「ソフィさん、やっぱり飽きちゃってますね」
「すぐに朝食にしよう」
ちょうどその時、ソフィが帰ってきた二人を見つけた。目を輝かせて二人を呼ぶ声に、ノレアも手帳から顔を上げ、5号が缶詰を置いて手招きをする。
4号はクーラーボックスを担ぎ直すと、スレッタと共に三人の元に歩いていった。