泡沫の夢
「ねぇねぇ、心海って知ってる?」暗闇の中、ポツンと置かれているテーブル。
その上には2人分のティーセット。目の前にいるのは【僕】。
「……なぁにこれぇ?」
「あはは。ほらほら、折角並行世界?が産まれたんだからさお話ししよーよ」
そうして目の前の僕はカップに溢れんばかりのお茶を注ぐ。
「話って……話すことあるー?僕同士なのに」
「いやいや、意外と話せるかもよ?僕同士なんだから。案外見えなかったことが見えてくるかもー?」
そう言って目の前の僕は笑う。【僕】ってこう笑うのか。そう思いながらお茶を飲み干すと、すかさず目の前の僕は空っぽのカップにまたお茶を注いでいく。ふわりと浮かんだ湯気がのぼって消えていった。
「まぁ確かに、驚いたよー。並行世界なんてあると思ってなかったからさ」
「自分の目で見るまで信じられないよね?一つは僕死んでたし〜」
僕の杞憂とは裏腹に、話は弾んだ。思考回路が同じなせいかはたまた共通した話題があるからか、何となく口から出た言葉を間髪入れずに打ち返してくる。向こうもあまり考えずに言葉を発しているのだろう。
頭を使わずに会話をするのは楽でいい。話疲れて乾いた口を潤そうと紅茶を飲み干すと、また目の前の人物が並々とお茶を注いでいく。カップの容量なんか考えてないんじゃないかと思うほど勢い良く入れられたそれは、意外にも溢れるギリギリで持ち堪えていた。
こういうの、「表面張力」って言うんだっけ?そう考えながらカップを持ち上げる。
「生きてるくせに、変わらないなんて有り得ないよ?」
「…びっくりしたー。いきなり何の話?」
「えー、君が言ったくせにー。僕達全然変わんないねってさー」
飲もうと口元に持っていったカップを持つ手が思わず止まるが、どうぞどうぞと促す僕を見て改めて口に運ぶ。ゆらりと浮かぶ湯気を見ながら、改めて口を開く
「けどさー、思考回路も経験も何もかも同じなんでしょー?」
「でも僕を取り巻く環境はぜんぜん違うじゃない」
「んー、ifってやつ?でも会話してて全然違和感なかったよ?自分が写った動画を見てる気分」
「全く同じだって?そりゃ参考文献が同じなんだから似るでしょーよ」
参考文献。そう言われて、つい最近別れを伝えた彼女の顔が思い浮かぶ。
「確かにそうだけどさー、ぜんぜん似てないよ。あの子とは」
「けど同じじゃん」
「違うよー」
何が言いたいんだ。
コイツ、僕だから頭を使う会話は嫌いって知ってるはずなんだけどな。いや知ってるからこそ投げかけているのか。僕の何に触れてほしくないなんて、手に取るように分かるんだろう。自分のことなんだから。
暗い世界。それでもなおハッキリと浮かび上がる目の前の笑顔を見て、眉を顰める。居心地が悪い。手持ち無沙汰に持っていたままだったティーカップを持ち上げる。
カップの中のお茶はいつの間にか冷え、色を失っていた。
…………あ、これ水だ
口に流れ込んできた味のしないそれを、仕方なく飲み込む。
「ねえ、どうして僕の力は【水】なんだろうね?」
目の前の僕はそう問いかけてきたくせに【僕】の口を塞ぐ。答えようと開きかけた口から漏れ出たのは泡となった空気だけだった。
あれ…いつの間に僕、水中にいたんだろう。
目の前の僕の僕の声ももう聞こえない。あぁでも、やっぱり何か言ってるんだろうな
そう思ったのはあっちの僕の口からも、泡が漏れ出ていたからだ。
毎日見て聞いて経験して、記憶して。枯れることのない心の海
否応なく感じ取ってしまう全てが、僕を構成するあらゆるものを変えていく。変わってしまう。生きているのだから、戻ることは不可能なのだと時間と過去が突きつけてくる
それでも。あふれ出そうとする言葉をその水で押し流して、耳を塞ぎ口を塞ぐ
そうして押し込んで沈めて、暗い海の底。光も見えず溢れ出した泡沫はやがて消えていく
それでも、その水はずっと綺麗なままでいられる。僕ごときの異物が紛れ込んだとて、どうせ海は広いのだから