水族館
輪郭がとれた、不明瞭な音が漂っている。
淡く光さす室内で俺は千世と陰だけの存在になって、亡霊のようにさまよう。
彼女はつまらないだろうか、などと余計な心配が泡のように意識を乱しながら浮上した。
少し、落ち着かなかった。
今日はせっかくのデートなのに、俺だけ楽しんでいないだろうか。
水族館の絹ごしされたような逆光をあびると、千世は儚い官能を帯びて、幻のようだった。
千世をこんなにしっかりと視界に入れたのも、はじめてだったかもしれない。
優雅と緩慢とは紙一重である。
真四角に泳ぐ魚の野性は、かたちを失った断片でしかない。
惰性が漂う空虚なアクアリウムで、俺は眺める前に流れるすべてと溶け合っていた。
かすかな耳鳴りの中、俺はぬるくなった脳で、回想した。
不器用な俺を、千世は懸命に愛してくれていた。
千世に合わせて、無理していたことに気付いたのかもしれない。
「作之助さんは水族館が好きなんだね。
今度、一緒に行ってもいい?」
千世はパンフレットを手に、俺に合わせた提案をしてくれた。
「いや、つまらないだろう。
俺は一人で、黙ってふらふらしているだけで千世を構ってやれない」
「作之助さんとこの水族館でだらだらしているだけでいいよ。
作之助さんがお魚さん見てる間、私は作之助さんの横顔を見てる。いいでしょ」
「……ううむ」
いいかも、と一瞬思ってしまった。
じゃあいこうね、と微笑む彼女に、頷いて見せたのだった。
耳鳴りの幻聴を聞きながら、俺は千世と古代魚の前に佇んでいた。
俺は孤独を愛しているようでいて、孤独からの解放を切望しているのだ。
魚は単数形も複数形もfishだ。
常に「私たち」たりえる魚たちに憧れがあったのだ。
一人になりたがるくせに、誰かと交わることを望んでいる。
水槽から目をそらす。
俺は深い呼吸をする。
千世はアクアリウムをつまらなそうに眺めている。
じっとりと倦怠を含んで重くなっている千世は、打ち上げられた魚のようだった。
ひれを重力にぺたりと貼り付けて、意味のない浅い呼吸を繰り返しながら、死に愛撫されぬるくなっていくように見えた。
さすがにかわいそうに思えてきた。
「帰るか」
手を差し出した。
千世は半ばほっとしたように見えた。
その手を掴むと、俺たちは水族館から外に出た。
夕焼けに染まった海を正面に、俺たちは歩いた。
口火を切ったのは千世だった。
「作之助さんには」
すこしだけ、迷ったような、悩むような沈黙が流れた。
俺は、じっと千世の声を待った。
「……水族館を好きな理由とか、きっかけってあるのかな」
安易な答えはふさわしくない気がして、俺は言葉を探すのにすこしだけ苦労したように思う。
「静寂が…ううん…うまくいえないな。
ただ、水族館をさまよっていると、俺は落ち着くんだ」
「作之助さんて、静かなの好きだもんね」
千世は囁いた。
「私はね、映画館が好きなんだ。
私もあんまり、はしゃぐのとか、たくさんお話するの苦手だから…映画の世界に身を任せていると、ちょっと楽なの。映画を見ている間は黙ってても、気まずくならないもん」
白く澄んだ瞼を、閉じたり開いたりして彼女は柔らかく微笑んだ。
水族館は彼女を不安にさせたのだろうか。心がざわめいた。
長く艶やかな黒い髪が流れた。
ふと、足下を見て千世はかがんだ。
「とてもきれいな貝!」
俺は千世の手を叩いた。
「危ないだろう!」
千世は怯えた目で見た。
当たり前だ。ほったらかしにされ、あげく手をたたかれるなんて最悪だろう。
「アンボイナガイだ。
刺された際の痛みは小さいが、 応急処置をしないと数時間で死に至ることもある」
俺は慌てて説明した。
「助けてくれてありがとう。
もし、作之助さんとじゃなかったら、あたし大変だったね」
「いや…ほったらかしにしてすまなかった。俺は、あまり面白い人間じゃない」
なんだか気恥ずかしくて俺は謝った。
恥ずかしがる必要はないのだが、なぜか言葉に詰まった。
何に対して後ろめたさを感じているのか、わからなかった。
水族館のことを言っているのだろうか。
それとも、先程の対応のことを謝っているのだろうか。
言葉がまとまらない俺に、千世は続けた。
「大丈夫な貝を教えて」
「任せてくれ」
俺は力強くうなずいた。
しばらく散策していると、すぐに見つかった。
「あった」
俺は巻き貝を千世に渡した。
「海の音をきくといい。せっかくだから」
「ありがとう」
目を閉じて貝を耳に当てる千世はきれいだ。
夕陽に輪郭をぼかされて淡く光っていた。
俺はそっと近づいて、千世の髪に触れた。
「作之助さん?」
「キスがしたい」
千世の肩は小さく跳ねた。
ややあって、頷いてくれた。
抱きよせると、柔らかく、素直な体温が伝わってくる。
俺と千世の心臓が重なって、潮騒と一つになった。
普段はこんな大胆なことをしないだろう。
俺はシャイな男なのだ。
だが、今は海以外のなにものも俺たちを見ないから、かまわなかった。
「いいだろうか?」
千世は少し動揺して、それから頷いた。
「うん」
俺たちはキスをした。
優しく触れ合っただけのキスだった。
暖かく湿った唇を感じると、あの夕陽のように、身も心も高く燃え上がるようだった。
急に、千世が女に見えた。
俺も男であることを思いだしていた。
思いがけず、角度を変えて深く、もう一度、二度、呼吸の隙も与えず重ねた。
千世が喉の奥で苦しそうに鳴き、俺の胸を手で弱くたたいた。
はっとして唇を放す。
「苦しい、…はぁ」
顔を真っ赤にした千世はひどくそそった。
「すまない、千世。
負担をかけるようで悪いが、俺も限界だ」
絞り出すように希望を伝えると、思いがけず、声がうわずって掠れた。
「千世がほしい」
千世は俯いてしまった。
髪をいじりながら、内股でもじもじと太ももをすり合わせた。
意を決したように顔を上げる。
千世の瞳は濡れて、ほとんど吐息で囁いた。
「いいよ」
それからは、何かに突き動かされるようだった。
電車に乗った記憶が、消え失せている。
海が見える宿をとった時は、百年の恋が実ったようだった。
百年ぶりに会ったように気が急く。
扉を後ろ手に閉めるやいなや、お互いの唇を貪り合った。
その後はもう、物語にならない。