死にたがりの救われたがり

死にたがりの救われたがり



あの輝きが、あの清廉さが、あの無垢さが、こちらに向くことが怖くて、目を逸らしたくて。


走って、走って、走って。


いつのまにか知らない場所にいた。時も随分と経っていたらしい。日は既に落ちきり、ただ月が静かに町を照らしていた。何も考えたくなくて、ぼんやりと辺りを眺めていると、橋の下、ちょうど川の淵にキラリと光る影があった。フラフラの蛾のように近づいて、水の中に手を入れる。一瞬感じるヒヤリとした感覚と、指先に当たるざらついた感触。なんとなく引き抜いてみる。それは包丁だった。いや、正確には包丁だった物だ。なにせ刃こぼれや劣化が著しく、その機能美は喪われている。


ジッと、包丁を見る。もはやくすんだ刃は、私を映さない。それにどうしようもなく安堵して、それで。


徐に刃を首に当てた。手入れなんてされていない、赤錆が浮いた汚らしい刃だ。刺したら痛いのだろう。こんな鈍だ。きっと、一度刃を引いただけでは死なない。

その光景を想像して、手が震える。

刃が落ちる。拾う。また落ちる。拾う。

震えが止まらない。左手で包丁を握ったまま、右手で手首を押さえる。押さえる手に力を込めるほどに、震えは大きくなる。動揺が包丁にも伝わって、ざらついた刃が首を傷つけた。

思わず手を放す。カラン、と包丁の落ちる音と、チリ、と熱のような感覚が一瞬。その後、何もなかったかのような凪の空白が過ぎ去り、ジクジクと痛みが主張してきた。

首に手を添えて、ただ項垂れ目を瞑る。情けない。これだけ打ちのめされて、これだけ恥を晒して、この心は、この魂は、まだ″生きたい″と醜悪に足掻いている。


もう嫌だった。もう終わりにしたかったのだ。あの光は私にとって眩しすぎたから。今まで目を逸らしてきた醜い自分をも照らす、あの光から逃げたかったのだ。


目を開く。月明かりは水面を照らして、私自身を詳らかに浮き上がらせる。

赤い梅の咲いた、膿の潰れた痕が目立つ醜い顔。

ヘラヘラと半端に釣り上がった下卑た口元。

光を映さずに、澱んだ脂の付いた目。

煤と埃と、皮脂に塗れた、ざんばらな髪。

これが私だ。私なのだ。欠陥品の癖に、生き汚く足掻いて、辛うじてあった価値すら貶めた果てが、これなのだ。そんなどうしようもない事実が今更になって、胸を刺した。


惨めな自分にはほとほと嫌気がさした。どうせ傷つくと分かっていたのに、光に群がる浅ましさが憎らしかった。ああ、そうだ。刃も引けぬなら、いっそ、未だに煩く鳴り続ける心の臓を突いてやろう。


そう思って、もう一度包丁を握りしめて、今度こそは終われるようにと願いながら、振り翳した。



そういえば

さっきからずっと

雨が降っている。



ーーーーーーーーーー



声が、聞こえた。


か細い、今にも途切れそうな声。

風でもそよいだら消えてしまいそうな掠れた声。

それでいて、何よりも強い芯を持った、意志のある声。


それは生き物として誰しもがもつ、当たり前の叫びだった。

″生きていたい″と、それだけを願って、誰かに救いを求める声だ。


思わず意識を集中させる。なにしろ遠くて仕方ないし、雑音も酷い。生きていたいと叫ぶ癖に、死んでしまいたいと周りを囲って吼えている。

普通ならばこんな処まで届きもしない、あまりに遠く、儚い縁だ。今から向かったところで道が途切れる可能性の方が高い。もし現界が叶ったとしても、声の主の命の輝きはもう尽きかけており、風前の灯もかくやである。星の輝きが星が消えても遥か彼方に届くように、たどり着いた先でその命を散らしていることは有り得る話だ。

そもそも、生存本能と希死念慮が複雑に混じりあっている。どれだけの苦難と苦痛に喘げば、こんな声になるのだろう。いっそのこと、手を取らずにこのまま終わらせた方がまだマシなのではないかと、そんな″らしくもない″考えがチラリと過ぎる。


それでも、蜘蛛の糸の如く、細い細い縁を繋いでまでも、手を伸ばしている誰かに。


応えない理由があるのか?

今、目を逸らすことは、果たして正義か?



____そんなの、ゴールデンじゃねェよなァ!



ーーーーーーーーーー



刃が、動かない。押せども引けども、大岩の如く微塵も動く気配がない。

瞼を恐る恐る開いて、伸び切った前髪の隙間から、影が自分に覆い被さっているかのように伸びているのが見えた。


誰かいる。先程まで人気もなかったのに、誰かが。


跳ねるように顔を上げる。

男だ。巨大な絡繰仕掛けの鉞を背に担ぎ、私が自身に突き立てようとした刀身を素手で握っている。

月の光を反射して、黄金の髪が綺羅星のように輝いている。しかして、美しいと称するには、男のまとう雰囲気は雷をその身に宿したかのような苛烈さだ。


「ッ何故、邪魔をする!!退け!!」


「いいや、退かねェ」


黄金の偉丈夫は低く唸ると、刃を捉えて伏せていた目をこちらに向ける。

蒼い、あおい、晴れわたる空のような目だ。金色の髪とその膂力と相まって、凡そ人と呼べる者ではないだろう。


「アンタが、俺を喚んだんだ。そんで俺は間に合った。一度届いたんだ。なら、その腕引っ張ってでも____」


しかし、怪異や神と称するには


「俺は絶対にアンタを助ける」


その瞳には強く揺るがぬ、澄んだ意志があるように見えた。

声に力が入るのと同時に、私の動きを止める大きな手にギチギチと力が籠るのを感じる。

ツゥ、と一筋、血が流れる。

血を、流している。


____誰の?


「俺がアンタのサーヴァントだ」


彼の血だ。


「誰がどう言ったって、何がアンタを否定したって」


私なんかのために傷ついて、人の懐にドカドカと入り込んでくる、見ず知らずの他人の血だ。


「俺がアンタを守ってやる」


私なんかのために痛みを受け入れる、酷く優しい男の血だ。


「俺がアンタを認めてやる」


なぜ、なぜだ?


「アンタは生きてていい。生きてて良いンだ」


私は死にたいのに。終わりたいのに。こんなの良い迷惑なのに。何故、何故、この心は、これ程に。


「だからもう____泣くんじゃねェ」


そう、言われて。私は、初めて。雨だと思っていたものが、涙であったと気づいた。


力が抜ける。ずるり、という音がするかのように、握っていた包丁を手放す。


生きても、いいのか。

私は、生きることを願っても、いいのか。


ずり落ちた腕を持ち上げる。緩慢に、時の流れが遅くなったのかと錯覚するほどに、おずおずと、手を伸ばして。


その伸ばした手が

土と皮脂で黒ずんでいて

梅も咲いていて

爪も肌も割れた

汚らしい、凡そ多くが顔を顰めて振り払うであろう、手が。


なんの躊躇いもなく、傷つけぬようにと、優しく握られたのを感じて。


たったのそれだけで

他人の温度とは、こんなにも暖かいのかと

勝手に救われてしまった。


私は、もう一度目を閉じて、そっと目を開いた。


夢ではない。幻でもない。

目の前にいる。

黄金の如き輝きを持つ彼が、いる。


「ちょっくら順序がひっくり返ったが、名乗らせてもらうぜ。英霊・坂田金時―――只今ここに見参だ」


雨は、止んだ。


夜は、明けた。



Report Page