正雪先生が太公望を召喚しました。
──盈月の儀。それは、万能の願望機たる【盈月】を巡る、七人七騎の殺し合い。
彼女──由井正雪は、かの儀への参加を決意した。盈月の儀は外法であることは彼女も百も承知だが、彼女が抱く願いは人の手では叶わぬとこの十数年の生活で身に染みており、また、すでに朽ちかけている身ゆえにもはや手段も選んでいられない。
「──告げる」
この儀に参加するために、思うところのある幕府に仕官した。儀に勝ち残るために、あの腹に一物ある儀の主催者と手を組んだ。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
儀の参加者の証たる令呪は右手の甲にしかと刻まれ、後は過去の英雄英傑の魂──サーヴァントを召喚するだけ。
「この意、この理に従うならば応えよ」
大霊地でもある本拠の神田で、最も魔力の満ちる日、時刻《とき》を選び、陣を引き、彼女は英霊を喚ぶための詠唱を唱える。
「我は常世総ての善と成る者」
──どうか、どうか。
「汝、三大の言霊を纏う七天」
我が願いに賛同してくれる者を──そう望みながら、彼女は最後の一節を口にする。
「抑止の輪より来たれ──天秤の守り手よ!」
轟、と魔力の奔流が迸る。魔力の塊が、人影が、陣の中心に現れたことを──召喚に成功したことを彼女に告げた。一体誰が声に応えてくれたのだろうかと、彼女は僅かに緊張した様子で召喚した英霊を見つめる。
其処に居たのは、流麗な唐土の服に身を包んだ涼やかな青年だった。にこやかな表情を崩すことなく、彼は彼女へと言の葉を告げる。
「──此度は、ライダーの霊基にて現界しました。真名を太公望──ああ、呂尚でも姜子牙でも姜太公でも、好きに呼んでくれて構いませんよ」
告げられた名に、彼女は大きく目を見開いた。
太公望──紀元前一一〇〇年頃、周王朝の文王や武王に仕えた優秀な軍師であり、彼女が開いている軍学塾『張孔堂』の名の由来のひとつである張良の師である。
「さて、それでは問わせていただきましょう──貴方が僕のマスターですか?」
彼女の裡より湧き出るは歓喜、それ以外は存在しなかった。
嗚呼、嗚呼。
彼ならば──彼とならば、我が願いを──真に平らかなる世を為すことが出来る、と。
「お初にお目にかかります太公望殿! 我が名は由井正雪──恐れ多くも貴殿のマスターをさせていただく若輩者です! 不肖の身なれど、貴殿のマスターとして恥じぬ行いをせぬよう、努めさせていただく所存!」
「あれぇ? 何やら想定外の反応が……あのマスター、僕はサーヴァントなのでそんなに畏まらなくて大丈夫ですよ?」
「いいえ、いいえ! 私は未熟ながらも軍学を修めている身……大陸に名高い伝説の軍師たる貴殿を敬うは当然かと!」
「おや、当世の軍学者ですか。それはとても話が合いそうなマスターだ……どうです? 親睦を兼ねて軍学についてお話でも?」
「はい! 喜んで!」
(ん~何だろうなァこの純粋な幼子を相手にしているような感覚は……)
彼の内心に気づくことなく、彼女は平伏していた頭を上げ、目を輝かせて彼の提案を喜んで受け入れた。その拍子に、彼女の懐より一冊の書が滑り落ちる。
【封神演義】──今は亡き明国にて流行した、殷周易姓革命を舞台とした、仙人や道士、妖怪が人界と仙界を二分して大戦争を繰り広げる娯楽小説である。
「これは……」
「え!? あ、いや、この書はその! 門弟より勧められ断ることも出来ず──」
(そっかァ……僕、娯楽小説が触媒になって召喚されちゃったかァ……)
それを目にした彼は思わず意識を遠くへやり、何を落としたのか認識した彼女は慌てたように弁明を続ける。
マスターとサーヴァント、彼女と彼の数奇な邂逅は、斯様な締まりのないものだった。