楠木殿から見た弟思いについて
当主の異常な愛情〜または拙者はいかにして心配するのをやめて弟総攻撃に全ベットするに至ったか〜
足利兄弟のギリギリ行き過ぎたブラコン
尊氏→正成は(一方的な)友情 直義いませんが直義の奥様が出ます
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自分が足利の若き惣領から気に入られていると気づくのに、そうそう時間はかからなかった。
京の帝と公家をあっという間に魅了した大らかで人好きのする笑顔。精悍な顔立ちをくしゃりと崩してまるで人に懐いた大型の犬が尻尾をブンブン振りながらまとわりついてくるかのような無邪気さでこちらに話しかけてくる。
鎌倉幕府滅亡の立役者として帝から多大なる恩義を賜り今では忠臣扱いされるに至ったが、自分はもとはしがない土豪である。名門中の名門である足利家の当主からの掛け値なしの好意には戸惑うばかりだ。側近の高兄弟の方が実に分かりやすく警戒してくれている。
一方でその好意が真なるものかは疑問が残る。以前、京の御所でとある公卿に数十年来の親友であるかのように親しげに振舞い、その後で高師直に彼は誰だったっけ?とのんきに尋ねる姿を見たことがあった。
そんな光景を見てもなお、これだけ親しげに接してくれる自分だけは彼の特別である、そう思い上がらせる程の魅力が尊氏にはある。自分はその術中にはまっていないと確信できる自信はなかった。
尊氏に招待され、足利邸で催された宴の席。屋敷の堂々たる風情、敷地内で武芸を磨く郎党たち、宴の間にかけられた襖絵の見事な意匠、流石は天下の足利よと感嘆せざるを得ない。
また、宴の間に並べられた豪勢な品々に恐縮し、さぞ奥方の労も大変だったろうとヘコヘコと礼をのべると、尊氏はきょとんとした顔で「奥は包丁一つ握ったことがない。料理は全て師直が作った。」という。執事ってそういう仕事だったかな。
少人数の宴だった。招待されたのは正成のみ。そして同席するのは尊氏と高師直、師泰兄弟だ。
宴の席で尊氏は、足利が帝方に参戦する前、元弘の乱で各地の北条軍と戦った時の戦話を聞きたがった。
絶望的な戦力差を耐え抜き、楠木正成の武名を全国に知らしめた千早城の戦い、篭城中に溜まった糞尿をどうにか処分できないかと考えて、北条方にくれてやればいいのだと思いついて、女子供含めみんなこぞってうんこを鍋で煮えたぎらせてぶち撒けてやったと話せば尊氏は手を叩いて童子のように大笑いしていた。悪党連中に大ウケする鉄板ネタだ。横の師泰まで大口を開けて豪快に笑う。この宴席の為に料理の腕を振るった師直だけが眉根を寄せ、肝の小さな輩ならそれこそ糞尿を失禁しそうなしかめっ面をしていた。
「失礼致します、大殿」
男だらけの下品な話題は突如響いた涼やかで細い声に一旦中断した。目を向ければ、部屋の入り口に優美な打掛を着た一人の女性が平伏していた。
「宴の席に顔を出せぬ夫の代わりに楠木様に一献仕りたく、参りました。」
「直義からか。相変わらず律儀だなあ」
尊氏は楠木の方に向き直り、
「楠木殿、こちらは我が義妹にござる。」と女性の正体を明らかにする。
穏やかな笑みを浮かべてそつなく紹介する尊氏の姿は先ほどまでうんこの話題で大はしゃぎしていた素振りは微塵もなく、当主の威厳を取り戻していた。
女人は尊氏の許可を得て膳を捧げ持ちしずしずと楠木に近づく。
振る舞いに品があり、穏やかさと知性を感じさせる女性だ。
「足利直義の妻にございます。夫自らご挨拶できぬ非礼をお許し下さい。」
淑やかに一礼し、恭しく酒瓶を傾ける。
「や、これはかたじけないでござる」
袖口から伸びる嫋やかな腕。桜貝の爪、白魚のような手、とはこのような女人の手を言うのだろうな、あとなんか良い香の匂いがする。
あ、駄目だ脳内で妻が鬼の形相で仁王立ちしている。そんなに怖い顔をしないでほしい。どんなに雅な美女をあてがわれようが拙者の尻を蹴り上げて発破をかけてくれるのはお前だけでござるよ。
直義殿の細君が全員の盃に注ぎ終えるのを見て、忙しい中すまないな、もう下がってよいぞ、と尊氏が声をかける。ーー直義に礼を言っておいてくれ。でもあまり根を詰めるなよ。あんまりに遊びに来ないから兄は寂しいぞ。
細君殿は、ふふ、と笑って直義様に申し伝えましょう。と答えている。仲の良いことだ。
唯一の女人が場を辞した後、一旦途切れた話題を再開するほどのこともなく、自然と、この酒を差し入れてくれた直義の話になる。
「直義殿は近々関東に下向されるとか。」
尊氏の提案で東下する成良親王の補佐役として、足利直義に実質的な鎌倉統治の権限を与えることに護良親王をはじめとして反対を表明する公家もいたのだが、結局帝が意見を変えることはなかった。
楠木はほとんど直義と面識がない。会釈くらいは交わしたことがあるが、いずれも尊氏に随行していたところに顔を合わせたという形であり、その時は兄の後ろに控えていた。怜悧な印象を抱かせる秀麗な面立ちで、顔立ち自体は兄と似ているのに、雰囲気と背格好でこうまで印象は異なるものだと思ったものだった。
「弟はそれがしよりよほど頭が切れるし領地経営で右に出るものはいないですよ。必ずや鎌倉を復興して帝の御威光を関東に知らしめることでしょう。個の武に関してはうん、まあその、ちょっと弱っ!て思うところもあるから心配なんだけど。なあ師泰、やっぱりお前もついていけ。直義が心配だ。」
弟の能力を誇らしげに語っていたかと思えば、童子を見守る親のように急に不安げになり、表情がくるくると変わる。
「勘弁してください殿。俺だととうが立ちすぎてるし強面すぎて民が怯えるって直義様直々に断られましたぜ。」
尊氏から話を振られ、師泰が答える。
兄の勧めた重臣を断り、自分自身で選んだ郎党を連れて行くのか。兄の名声への依存は少なく、なかなか自立心の高い人間と見える。
武に関して言えば尊氏と比較すれば誰でも冴えない事になってしまうので、判断は保留だ。
「鎌倉出立の準備で手が回らないのでござろう。それほど内政に明るい御仁ならば、ぜひ拙者も一度くらい胸襟を開いて膝を突き合わせお話をしてみたかったでござるな。」
これは本音だ。いきなり河内守などという大層な役職をもらってしまったせいで、やることが盛りだくさんなのである。広大な領地の経営術に関する知識や経験に明るいのであれば、話を聞いてみたい。
「ああそれはだめです。直義は楠木殿に深く関わらせぬようにしておりますからな!」
盃を煽る手が一瞬止まり、ピシリ、と場の空気に緊張が走った、ように思えた。
楠木と足利は建武政権の中核を占める同志、という事にはなっているが、二人三脚の仲良しこよしではない。実弟にして両輪の片割れ、その人となりを明かしたくない。それは当然の事だが、面と向かって明かすのはあなたを警戒していますと表明したも同然だ。
だが尊氏は思いもよらないことを言う。
「だって我と直義は一心同体。直義が会ったら絶対楠木殿を好きになってしまう。それは駄目です。」
??なんだそれは。
ここだけの話ですが、と尊氏は頬をほのかに赤く染めて照れくさそうにしながら、内緒話をするようにこちらに身を乗り出し顔を近づける。
「我は楠木殿を兄のように思っているのですよ。我ら兄弟にももう一人兄がいたが、我らが幼い頃に早世してしまった。生きておいでなら楠木殿と同じくらいの年頃だったでしょうか。うん?あれ、そうだったかな、師直」
「いかにも。殿と楠木殿の年齢差は高義様と同じくらいでしょう。」
「そうかそうか、なにぶん過ぎたことは記憶が曖昧でな。まあ、そんなわけだから駄目です。直義の兄は我だけじゃないといけないんです。」
この男、思考回路が飛ぶなあ。ついて行くのに精一杯だ。いや、ついていけてるのか?そこの高兄弟も、見てないでちゃんとここについても補足説明してくれ。お主ら兄弟もそんな感じなのか?
手酌で酒を継ぎ足す高兄弟は目配せして首を振るだけだ。やれやれ、また始まった。そう言いたげだ。
頭の中を総回転させて整理すると、尊氏は直義と一心同体なので尊氏が兄のように慕う人間は直義もそう思うようになるだろう、と。
でも直義の兄は自分一人だけしか許せないので拙者に会わせたくない、と?
いってることがめちゃくちゃだ。自分と弟が全く同じ思考回路に至ると思い込んでいないか?
自分にも弟がいるが、弟が好ましく思う人間と自分の嗜好が合わないのは当たり前だと思っている。
元服前の自分の息子たちでさえ、そこの区別は出来るだろう。
一心同体、というのが比喩ではなく本気で自分自身の一部か何かと思っているのだろうか。
誰からも好かれ、武芸も教養も非の打ち所がない武家の棟梁と、三歩後ろに控えて当主である兄を支える理想的な武士の舎弟。そんな印象しかなかった尊氏と直義の姿かたちが脳内で徐々に歪に結ばれていく。
あんまり深掘りしたくはないなあ、この兄弟関係。
敵を知り、己を知れば百戦して危うからずとは孫子の言葉だが、この男を理解“しなければ”ならない事態など、金輪際来なければ良いが。
END