柁と杷の人工授粉

柁と杷の人工授粉


春の柔らかな日差しが注がれる縁側で、柁はうとうとと船を漕いでいた。

本来植物である自分たちに睡眠の感覚は無いが、人の体を使い始めてからは疲労や眠気を覚えるようになったのだ。特に今日のは、花壇へ歩くのも億劫なほど。

「ん〜……」

ゆらゆらと夢現つを繰り返す。そんなとき、風に乗って甘い匂いが流れてきた。

「うん……?」

その匂いに誘われるようにして目を覚ますと、すぐ隣にはいつの間に帰ってきたのか、杷が座っていた。元は枇杷の木である杷からは常に甘酸っぱい香りがする。

「起こしちまったか」

そう言いながら優しく頭を撫でてくる手つきはとても心地いい。

「じいちゃん……?」

「そうだよ」

まだ少し微睡みの中から抜け出せないのか、二人きりのときにしか使わない呼び方をしてくる柁を見て、ふっと笑った杷はそのまま手のひらを柁の目へかぶせた。

「もう少し眠るといい」

「でも……」

せっかく帰ってきたのだから一緒に遊んでほしいが、どうにも体が重くて起き上がれない。

ここのところ体調が悪い。からだの中の巡りが悪いような、何かがつっかえてもやもやするような感じがあるのだ。

「儂が隣にいてやる。ゆっくり休みなさい」

杷はそろりと目隠ししていた手を外し、そのまま頬へと滑らせる。

「日を浴びているのにずいぶん冷たいじゃないか」

「じいちゃんの手があったかいんだよ」

「そうかな?ならもっと温めようね」

そう言って、杷は自分の羽織を柁にかけた。ありがとうを言おうとして杷の方へ顔を動かした柁は、ぐらりと傾くような感じに思わず呻く。

「っ……!」

「大丈夫か!?」

慌てて抱きとめてくれた杷のおかげで地面との激突は免れたが、それでも頭の中がぐるぐると回る。

「ぁ……ぅぇえ……きもちわるぃ……」

「花壇で変なものを吸ったか? 吐けそうなら全部出していいぞ」

背中をさすってくれる手が温かくて安心したのもつかの間、さらに頭が割れそうになるほどの頭痛に襲われて、柁は目の前の着物に縋りついた。

「じい、ちゃ、あたまいたいっ……いたいよぉ……!」

「参ったなあ……」

痛みを訴える声を聞きながら、困り果てたように呟く杷。

「何が原因かね。儂にどうにかできることならいいんだが」

よしよしと宥めつつ様子を見る。植物のことならまだしも、万一人の身が病んでいれば自分には手の付けようがない。

愛らしい顔立ちは苦痛に歪み、咲き乱れた花すら萎れて顔にかかっていた。見ているだけで辛くなる。

「ん?」

杷は違和感を覚え、ここ数日の柁を思い出してみた。

「……かじ坊、お前、そんなにたくさんの花を咲かせていたかい?」

落ち着いて見てみればいつもより花が多く咲いている。それに茎も葉も鮮やかに色づいていた。

「ああ、なるほど。それで体がおかしかったのか」

「じいちゃん、わかったの?」

「ああ。泣くようなものではないよ」

微かに色づく涙を拭って、杷は「受粉の時期だ」と告げてやった。

人の身を借りていても核は植物。季節が巡れば葉は色づき、花が咲く。

そして杷や柁は実をつける種だ。しかし柁は自身の不味い実をひどく気にしており、体が変わって最初の春ということもあって、そろそろ受粉しなければならないことに気づかなかったらしい。

「虫が来ればいいんだが、こう大きくなると虫の方も混乱するようでな。手でやった方が確実だろう」

人工授粉はそう難しくない。筆や綿棒で雌蕊を撫でてやるだけだ。杷自身ももしかしたら使う時があるかと一通りの道具を揃えていた。

しかし。

「こら、かじ坊。逃げては終わらないぞ」

「やだ! やーだーっ!」

「お前の体は生きている限り実をつけようとするんだよ。無理に逆らったらもっと苦しいだけだ」

柁が嫌がって暴れるので、筆を近づけることもままならない。頭が痛いと泣いていたはずなのに、元気に手足を振り回し、嫌だ嫌だと騒いでいる。この様子ではいつ終わるとも知れないので、杷は実力行使に出ることにした。

「かじ坊、大人しくしな」

「じいちゃん……っ!?」

首の後ろ、蔓が絡まったような質感の部分を筆で撫でてやれば、柁はびくっと体を跳ねさせた。いきいきと植物が残る部分は感覚も鋭い。弱点に触れられた柁が動きを止めた隙に押さえ込む。

「ほれ、さっさと終わらせるぞ」

「うぅ〜……」

観念したのか抵抗をやめたものの、顔を真っ赤にして俯いてしまった。その様子が可愛らしくてつい笑みを浮かべてしまう。

「ふむ、これはこれで可愛いもんだ」

「じいちゃんのばかぁ……」

「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」

そんなやり取りをしながら、杷はそろりと筆を動かしていく。花の中をちょんと撫でては他の花へ花粉を移す。本来なら虫が担う役目だが、杷はどんな虫より丁寧に作業を続けた。

一方の、すっかり羞恥に耐えられなくなったらしい当の本人はといえば、ぎゅっと目を閉じて震えている。

「もうちょっと我慢しなさい。すぐ済むから」

「だってぇ……!」

「かじ坊が枯れないようにやってるんだぞ」

そう言って首をくすぐれば、「わかってるもん」とくぐもった声が返ってきた。「でも、でもぉ……!」

「どうした、言ってごらん」

「なんか、へんなかんじする……」

はぁ、と熱っぽい息を吐いて、身を捩らせる柁。それを見て、杷は何事か察したように口元を緩めた。

植物の受粉はいわゆる繁殖行動、人間でいうところの性交に近い。性交は気持ちいいものという、人の身がもたらす認識と感覚がごちゃごちゃになって、ただの受粉に感じているのだろう。

「じいちゃん……?」

「ああ、すまんね」

不安そうに見上げてくる目に微笑んで、頭を優しく撫でてやった。

「大丈夫だ。それは悪いことじゃない」

「ほんと?」

「本当だよ。だからもう少し頑張れるね?」

「うん……」

再び黙り込んだのを確認して、杷は最後の仕上げにかかる。

「ん……んぅ……」

ぴくん、ぴくん、と小さく反応しながら、それでも健気に声を抑える姿はとても愛らしい。とても他の者には見せられない姿だ。

「よし、終わったよ。よく頑張ったね」

「……じいちゃぁ……」

振り向いた柁は、ようやく解放された安堵感と快楽に溶けた表情だった。

「もう辛くないかい」

「ん……だいじょぶ、だとおもう」

頭とうなじを撫でてやると手のひらに擦り寄ってくる。

「んん、じいちゃ、だっこぉ」

甘えた声で両手を広げれば、杷は苦笑いしつつも柁を膝に乗せてくれた。

「まったく、仕方のない子だ」

「えへへ、じいちゃあん」

「……まあ、たまにはいいか」

抱きついたまま離れようとしない孫に、呆れたような言葉とは裏腹に優しい眼差しを向ける杷であった。

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