来ぬ人を
高い空に月が昇っていた。夜はまだ涼しい、というよりも肌寒い。鯉が池の中で跳ねて、水の踊る音が背後から響いてきていた。
「楓香ちゃん」
「浮竹さま」
カタン、と門を開く音がして浮竹が顔を出す。彼が今の楓香の保護者だ。楓香が唯一頼れる大人。迷惑をかけてはいけない人。
「中に入った方が良い。もう夜だし、冷えるだろう」
「……でも、ローズが帰ってくるかもしれないから」
「………楓香ちゃん」
「雀部副隊長さまが言っていたもの。ローズは任務で行方不明になった、って。それなら今日は帰ってくるかもしれないでしょう?」
それなら私がここで待っていないと、と続けて、楓香は月を見上げた。
父と暮らした屋敷は今日の昼にこっそり行ってみた時、既に立ち入り禁止の措置が取られていた。知らない大人達が忙しなく出入りしていて、今身にまとっている夜用の着物と羽織、そしてシーグラス以外はほとんど持ち出せないままあの中にあるはずだ。
――きっと、もう自分の手元に戻ってくることはないのだろう。父のお気に入りのものも沢山あったのに、帰ってきた時落ち込まないだろうか。
「楓香ちゃん、よく聞くんだ」
隣に並んだ浮竹が、真っ直ぐにこちらを見た。首を傾げながら向き直ると、肩に優しく両手が乗せられる。
「……君の父上は、恐らくもう帰らない」
「え?」
多分この時浮竹は、最大限の配慮をしてくれていたのだと思う。
行方知れず、虚化、実験、四十六室による決定。
あらゆる事柄を噛み砕いて、直接的な表現はできる限り避け、それでも下手に誤魔化すことなく楓香に全てを話した。
「わかるかい。だから――……」
「嫌!」
久しぶりに喉から零れた大声に自分でも驚く。
「違うもん、帰ってくるって、ローズ言ってたから、」
仕事をよく放り出しては怒られていたけれど、楓香との約束を破ったことはない。父はそういう人だった。昨夜も確かに直ぐに戻るよ、と言って出かけて行ったのに。
――けれど、今なら思う。楓香を安心させるためなら、父はどんな嘘でも吐いただろう、と。
「帰ってくるって、言ってたもん……!!」
溢れた感情のままに見開いた目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろと頬を伝って落ちる涙を、浮竹が痛ましげな顔をしながらゆっくりと拭ってくれる。
父と違う手の感触。
本当に父はもういないのだと突きつけられた気がして、楓香は声を上げて泣き出した。