束の間の休養
意識を失っているルフィの腕が振り子のように揺れた。
叩きつける様な大雨を浴びながら、ウタは震えながら息を吐く。
海軍の追撃は過酷を極めた。
大将を筆頭とした強者たちが次から次へと襲ってくる悪夢。
己よりも強大な相手からの殺意に、ルフィとウタはか細い縄の道をなんとか通ることで生きながらえている。
だが、綱渡りの度に代償は支払うことになる。
血が流れ、肉が削がれ、時には骨に罅が入る。
切り抜ける度にそれらは徐々に、だが着実に体を蝕んでいったのだ。
そしてついにその時が訪れた。
海軍が敷いた包囲網からの突破。
どんな有名海賊であろうとお縄につくしかない状況でありながら、逃げ延びるという偉業と引き換えに、ルフィは意識を失ったのだ。
「ルフィ! ルフィ! しっかりして……っ、切り抜けたんだよ、後、少しで逃げ切れるんだから……」
ウタの声にルフィは答えない。
どれだけ傷つこうともウタを心配させまいと笑顔でいた彼は、もう取り繕う余力すらないのだと。
そう悟ったウタは雨以外の滴で顔をグチャグチャに汚す。
「ル゛フィ゛ィィ……」
気絶した青年の体は重い。
けどウタには運べる。まだ、運べる。
彼女の真価は戦いではなかったけど、仮にも准将まで上り詰めたのだ。
細い体格であっても、彼を背負って移動できる。
「血ィ……止めてよ゛ぉ……」
だけど、ルフィを背負うウタはだからこそ分かってしまう。
密着した二人の体の間を流れる生暖かい物。
ルフィの体から熱を奪うそれが、ピチャピチャと地面に垂れていっていることが。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
置いて行かれる。ルフィが死んでしまう。
その事実が脳を揺らし、視界をブレさせた。
死なないで、死なないで、死なないでっ、死なないで……!
「ぁ……小屋……?」
祈りが誰かに届いたのか。
進んだ先に見えたのは廃墟らしき小屋。
石造りのそれは苔が生えているが、雨風はしのげそうだ。
中に誰かが潜んでいないか警戒しつつも、ウタは小屋に入っていく。
ルフィの体をこれ以上、雨に晒さないために。
小屋の中には質素ながら何点かの家具があった。
床には、木でできた人形もある。
この造形は男の子が好きなロボットだ。ルフィが目を覚ましていれば大はしゃぎをして喜んだだろう。
生活感の名残がある。
引っ越した訳ではなさそうだ。かといって、今もここに住んでいるようにも見えない。恐らく、ここの住人たちは……
思考を停止する。
今はそれに義憤を覚えることはできない。
それよりもルフィが心配だ。
埃の見えるベッドにルフィを寝かせた。
こうして落ち着いて彼を前にすると分かる。
血の臭いだ。ルフィの限界は刻一刻と近づいているのだと。
「すぐに手当てをするからね」
ボロボロになった正義のコートを脱がせる。
上衣もルフィがゴム人間なことが幸いして、簡単に脱がせることができた。
普通の人間だったら、関節がおかしな方向を向いてしまい、途方にくれただろう。
真っ先に目に映ったのは火傷だ。
大将赤犬。あのマグマから命からがら逃げた時についたもの。
それだけではない。
これまでの逃亡劇の軌跡がそこにあった。
剣での攻撃を防いだ時の腕の切り傷。
嵐脚を喰らった時の薄い裂傷。
海王類から受けた噛み傷。
逃亡劇が始まってちょっとしか経っていない。
なのに、今まで彼にはついていなかった傷の数々。
それが自分を守るためのものだと、その事実が辛くてウタは涙を流す。
一つ一つを布で巻いて応急処置をしていく。
これで失血は防げた筈。
しかし、死神の足音はまだウタの耳に聞こえてくる。
「体が、どんどん冷たく……!?」
蓄積されたダメージは、もう包帯程度でどうにかなる段階ではない。
ルフィの体は緩やかに死の階段を下っている。
「駄目、ルフィ……駄目……っ」
必死にルフィを生き延びさせる方法を探す。
エネルギーが足りないのだ。
逃亡生活の中では満足に食料を得ることもできない。
そして、戦闘の度に血が流れていく。
これでは生きるために必要なエネルギーが底をつくのも当たり前だ。
嗚咽を漏らしながら、家の中を探す。
ある筈がない。こんな場所に食料など。
外の苔の侵食具合から言って、年単位でここは放置されているのだから。
「……あれは」
だが、その時。
特徴的なピンクと黄色のシルエットが目に入る。
「これ……確か、ネズキノコ……?」
ウタは能力を使うとすぐに眠くなる。
海賊を捕まえるにはもってこいの能力を活かすため、その弱点の克服のため、ウタは様々なチャレンジをした。
ネズキノコもその内の一つだ。
食べると眠れなくなる特性を活かせると考え、その考えを話した所、船医にこっぴどく怒られたことがあった。
ネズキノコは毒性の危険物。
食べればその者は狂暴化し、やがては毒素が全身に回り死に至る。
そんな物を食べるなと。
結局、その後もネズキノコの効用は魅力的で。
何とか毒性を解決できないかと暫く試行錯誤したため、ネズキノコのことはそこそこ詳しくなっていた。
ウタの求める毒性のない不眠剤には至らなかったが、調べた利用法の中には、過去にネズキノコは興奮作用を活かして強心薬として使われたという記述があった。
「これなら、ルフィの体をもう一度、復活させられるかも」
悩んでいる時間はない。
ネズキノコを採取し、持っていたナイフで笠の部分にある耳のような突起を切り落とす。
それを小屋にあった小皿の中で磨り潰すと、そこから出てきた緑色の液体をルフィの口に運ぶ。
「ルフィ、これを飲めば大丈夫……飲んで」
彼の名を囁く。
ルフィの頭を左手で支え、皿の中身をゆっくりと流し込んだ。
意識のないルフィは一気に飲み込めない。
少しずつ。
少しずつ。
無心で青年の喉元を見つめる。
喉仏が小さくゴクンと音を立てて動いた。
「……ぁぁ」
良かった、飲んでくれた。
これで希望は繋げられる。
劇薬が、ルフィの生存本能に火をつけてくれる。
それはこの地獄にまだ彼を縛り続けることなのかもしれないけど。
ウタは良かった、と混じり気なく喜んだ。
皿を持つ指がルフィの唇に触れる。
それに反応して彼の体がピクリと動いた気がした。
「これで終わりじゃない。体を温めないと」
ベッドに置かれた毛布を掛ける。
長く放置していただけあって、嫌な臭いがしたが、贅沢は言ってられない。
そして、家にあった木材をかき集めて焚火も用意する。
海兵に支給されている装備の一つであるナイフは、サバイバルを想定して火花が散りやすい物になっているので、苦労せずに火を起こせた。
パチパチと音を立てて燃える焚火。
それを見つめながら、他にどうやったらルフィが温められるか考える。
他に熱を持つものはどこにあるのか。
「……」
効果はあるか分からないが、一つ思いついた。
ウタは毛布の中に入り込むと、ベッドで眠るルフィの隣まで行き、ギュッと抱きしめた。
彼の存在を確認するように。
もしくは、彼を求めるように。
強く、強く。
心臓の鼓動が彼に伝わるように、強く。
「……いつもそう、ルフィがボロボロになっても私は何もできない」
睦言のように。
そっと、語りかける。
ウタを守るとルフィは言う。
そしてその言葉通り、今日までウタは守られてきた。
幸福なのだろう。
彼にこうも想って貰えることは。
だけど、ふとこれまでの自分を振り返る。
彼の献身に報いるだけの何かを、自分はできているのだろうかと。
できている筈がない。
ウタという存在は疫病神だ。
今、手当てした全ての傷の元凶はウタなのだから。
「ごめん、ごめんね゛ぇ……」
無力感を前に、ウタの中の感情が制御を失う。
まるで子供に戻ったように。涙が溢れ出した。
ああ、せっかくルフィを温めているというのに。自分はなにをやっているのだ。
「わ゛た゛しっ、こんなっ……ことしかできない……!」
雨の音が聞こえる。
時間が引き延ばされるような奇妙な感覚が、認識を支配した。
どれだけ経ったのか定かではない。
それまでの間ウタは目をつむって、必死にルフィが生きることを願った。
「……十分だろ」
かけられた言葉に目を見開く。
ルフィはまだ目を閉じたまま。
ただポンと、ウタの頭に手を置いて感謝を伝えたのだった。