未知の存在
空座総合病院
——「雨竜を斬ったのは虚じゃない」
告げられた言葉に、私の隣で井上さんが息を呑む気配がした。
私も、少なからず驚いた。
「え……」
『虚じゃない……?』
石田竜弦の言葉を口の中で繰り返す。
彼の言葉はなにも、虚と破面を別の存在として考えたものではないだろう。
ならば、他に考えられる候補は二つ——
——死神か、滅却師か……。
口元に指を当てて、静かに目を伏せた。もたらされた情報を基に、頭の中で候補を挙げて犯人の正体を絞り込んでいく。
——石田くん以外でこちらにいる滅却師は、私か、目の前のこの男だけのはずだ。
父が「生き残った滅却師は他にいない」と言ったなら、それは確定した情報だ。
だってあの人は私に嘘をつかないから。
そこまで考えて、故郷を思い出す。故郷には他にも滅却師は大勢いる。
だけど「誰かをこちらに寄越す」なんて話は一度もされた事はない。
『…………』
故郷から誰かがこちらに来ているという可能性はまだ否定できないけれど……今、こちらにいる滅却師は私の他には石田家の二人だけだと思って考えよう。
——私はやってない。
——石田くんの自傷も違うだろう。
——石田竜弦……彼が犯人ならわざわざ私達を呼びつけてこんな話をする意味は?
彼が自分を犯人から除外するために連絡したにしては不自然だった。それなら一護だけを帰す必要があるとは思えない。
石田くんを斬った犯人が、滅却師である可能性は0ではないだろう。だけど……。
『…………』
「…………」
——……いや、情報が足りない。
——追加が欲しいな。
竜弦は考え込む私の様子を観察しているようだった。だから、口に出す言葉は慎重に選ぶ。
『まさか、今頃になって死神が石田くんを襲撃するとは思えませんが』
僅かに目を細めて、竜弦が私を見る。
私が投げかけた言葉は、彼が来ると予想していたものと違ったのかもしれない。
何となく、私をこの場に引き留めた石田竜弦の狙いが読めてきた気がした。
黙って目を逸らした竜弦が口を開く。
「……ああ。勿論、死神でもない」
——今回の駆け引きは私の勝ちだ。
冷淡な目で私を見ていた竜弦がそっぽを向き、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
こちらから視線を逸らしてくるりと踵を返すと、廊下の向こうに歩いて行く。
私と井上さんはその背中を追いかけた。
「傷口の残存霊圧を調べたんだが……正直霊圧と呼ぶべきかどうかも疑わしい。今迄に触れた事の無い型の霊圧だった」
その言葉はつまり、犯人が死神とも、虚とも、滅却師とも異なる存在であるという事を示していた。
未知の敵の存在を示唆する言葉。私は気を引き締めて、手首から下げた滅却十字を握り締める。
「それって……」
早足で歩いていく背中を小走りになって追いかけた井上さんが何かを言いかけた。
だけど、井上さんが言い終える前に、彼は上から言葉を被せて質問を遮る。
「質問はするな。判っているのは今話している事で全てだ」
廊下を通り抜け、階段を降りながら、彼は息子を庇うような言い方で現状判明している範囲の情報を明かしていく。
「斬られた本人も、敵の事など何も判らなかったんだろう。雨竜(あいつ)は君達に何も話さなかったんじゃない。何も話せなかったんだ」
——「今は本当に話せる事は無いんだ」
病室から帰る時、石田くんが言っていた言葉を思い出して得心がいった。
『……ああ、「話せる事は無い」というのはそういう……』
「そんな……」
階段の中腹でぴたりと足を止めた竜弦が口を噤んで俯く。私と井上さんは、階段の上で立ち止まって、じっと彼の言葉の続きを待った。
病院の大きな窓から差し込んだ月光が、窓枠と同じ十字の影を階段に落とし——
——階段の下で、ゆっくりと振り返った竜弦と、目が合った。
「とにかく、君達に危険が及んでいるのは明白な様だ。心当たりは——あるかね?」
嫌な問い方だ。私は彼の問いかけに肯定も否定も返さなかった。
多弁は銀、沈黙は金——顔色一つ、声音一つが情報になる時もある。無駄な情報は渡すべきじゃない。
「……これは私の推測だが」
囁くような低い声は、静かな夜の階段によく通った。
「敵は恐らく我々の知らない何らかの力を手にした——人間だ。それはまさしく死神よりも君や茶渡君に近いものだ」
そう言いながら井上さんを見た竜弦が、今度はまた私に顔を向けた。
「大別すれば、滅却師である雨竜や君も、その中に入るだろう」
無表情を装っても、口に出す言葉の端々からは私への警戒が読み取れる。
——……やっぱり、そういう事か。
「雨竜が襲われた事を“同種の人間を襲撃した”と仮定すれば——」
竜弦の思惑がわかって私は目を窄めた。
——この男は、私を疑っているんだ。
——いや、『私達』を……か。
「次に襲われるのは君達か茶渡君のどちらかだ。……送ろう」