月が覗くまで離れないで
今日は一日中快晴というテレビでの天気予報は大外れになった。
確かに午前中は雲ひとつない秋晴れだったけど、午後になってから雲が出てき始め、トレーニングの時間になった途端バケツをひっくり返したような豪雨となった。
体育館は既に先約がいたため、「今日のトレーニングは全部休みにして帰っていいよ」と、トレーナーさんから言われたけど、あたしはトレーナーさんとまだ一緒にいたかったから、トレーナー室のテレビで過去のレースを見て学習トレーニングをさせてもらっていた。
「トレーナーさーん、去年の毎日王冠のDVDってどこにあるー?」
「ラックに無い?だとしたら他のトレーナーに貸しちゃってるかも」
「んーもうちょっと探してみる!」
トレーナーさんは溜まっていた卓上作業を消化していて、目線はパソコンに向いたまま声だけをあたしに向けている。
あたしは少しだけムッとし、DVDを探すふりをして机ごしにトレーナーさんの前でウロウロ歩き回る
それでも資料を見ながらキーボードを叩き、パソコンにデータを打ち込むトレーナーさん。
(トレーナーさんはわざとやってる訳じゃないし、邪魔するのはいけないけど)
こうもあたしの事を気にしないトレーナーさんにイラっときたあたしは、忍足で近づいてトレーナーさんの横に立つ。
それでも気付かないトレーナーさん。
(……今なら何しても、気付いてくれないのかな……?)
ならばと前屈みになって、トレーナーさんのほっぺたにキスした。
「!?」
するとトレーナーさんの体が飛び跳ね、キスした方のほっぺたを手で押さえながらあたしを凝視する。
顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
「え、えええええエース!ここ学園だろ!?誰かに見られたら……」
「扉の鍵閉めてるし、まだ雨降ってるから外歩いてる奴なんていねーよ」
「いやしかし何で急に…!」
「……あたしの方を見てくれないから、イタズラしただけ」
何でそんなイタズラをしたのかはあたし自身にも分からなくて、気まずくなって顔を窓の方に向ける。
雨は小雨に変わっていて、所々雲の間から茜色の空が見えている。
外を眺めていると、隣から椅子が動く音が聞こえた。
「トレーナーさん?」
トレーナーさんの方を向くと、トレーナーさんはあたしの目の前に立っていて、あたしを見下ろしている。
ちょっと怖くなって後退りすると、開いた距離分トレーナーさんが近付いてきた。
それを繰り返してると窓に追い詰められて、逃げ場を無くす。
トレーナーさんの、無表情の顔が怖い。
「わ、悪かったって…もうあんな事、学園内でしないから…」
これ以上近付いてこないよう、バリケードのように手を前に出す。
するとトレーナーさんはあたしの手首を掴んで、窓に押し付けた。
「っ」
ウマ娘と人間では圧倒的にあたしの方が力があるのに、あたしはトレーナーさんの手を振り解けない。
「エース」
「ぅ……」
トレーナーさんが無表情のまま顔を近づけてくる。
怖い。
何を言われるのか、何をされるのか分からなくて、怖い。
あたしは思わず目をギュッと閉じて、次に来るものに耐えようとした。
<……ちゅっ>
(えっ)
一瞬だけ、唇に柔らかい感触がして、思わず目を開けると、そこには夕日よりも赤くなったトレーナーさんが、「仕返しだ」って言って、照れながら笑っていた。
「あそこまで怯えられると、自分が犯罪者みたいな気分になったな」
「…怒ってないのか?」
「いいや?俺がエースを構ってやれなくて寂しくなったから、あんなイタズラしたんだろ?」
「……」
「あれ、違う?」
「違くないっ」
そっか、あたし寂しかったんだ。
ムッとしたのも、イラっとしたのも、トレーナーさんからいないモノみたいにされてると思ったから。
まだまだガキだな、あたし。
「ごめんな、今日のお詫びとして次のデートの時にエースのお願い、何でも聞いてあげるから」
「……それ、今がいい」
「え?」
ガキだから、まだちょっとだけ、我儘言ってもいいだろ?
「お願い……キス、もっとしてくれよ
あたしが満足するまで、トレーナーさんで、満たして欲しい」
……トレーナーさんは少し目を見開いた後、困ったように笑って、あたしにキスをしてくれた。
鳥が啄むように、何度も何度も角度を変えながら。
手首を掴んでいたトレーナーさんの手は、いつの間にかあたしの掌に移動して、恋人繋ぎになっていた。
しばらくして、トレーナーさんが少し離れる。
「満足した?」
そう聞かれてあたしは、トレーナーさんの手を解いて、トレーナーさんに抱き付く。
「……もっと足りなくなった」
「それは…困ったな」
トレーナーさんの背中に腕を回して、隙間が無くなるくらい抱き締める。
トレーナーさんもあたしの背中と腰に手を回して、あたしが苦しくならない程度に力を入れて抱き返してくれた。
(……幸せ、だなぁ……)
目を瞑り、トレーナーさんの匂いを嗅いで、体温を感じる。
あたしは、トレーナーさんの匂いも、体温も、この人の全部が好きで、どうしようもなく、この人を愛してる。
(どうか、この時間が永遠に続いて
まだ、あたしのことを離さないで
お願いだから、あたしを置いて消えないで
…ずっと、ずっとあたしを、隣で見ていて)
そう願いながら、トレーナー室が茜色から濃紺に変わるまで、あたしは、トレーナーさんから離れなかった。
終わり