最後の滅却師
カワキの自宅
ソファーに深く背中を預け、咥えた煙草を指先で摘まんで、黒髪の少女がふぅと唇を尖らせた。吐き出された白い煙が、細く揺らめいて天井に立ち昇っていく。
こうして昼間は控えている煙草を吸い、部屋で一人、晩酌を楽しむのがソファーに身をうずめる少女——カワキの日課だ。
一人静かに酒と煙草の味に浸るこの時間が、カワキはとても好きだった。
だが——今夜は無機質な携帯の着信音がカワキから楽しみを奪い去った。
携帯に表示された名前は——石田雨竜。
少し眉を寄せ、指先で挟んだ煙草を灰皿に置いてカワキが携帯を手に取った。
『…………。……また虚退治の要請か?』
もしそうなら、今夜は適当に断ろう。
そう思って、携帯を耳元に当てたカワキの顔色が変わったのは数秒後の事だった。
『……! あなたは……。……それは……いえ、すぐに向かいます』
細められた蒼い瞳に剣呑な光を宿して、カワキが携帯を置く。
灰皿に置かれた火が点いたままの煙草を一口吸って、煙を吐き出すと……カワキはその手でおもむろに煙草を握り潰した。
この部屋の中に他の人間がいれば火傷の心配をするところだろうが、ここはカワキの自室。彼女を案じる者はいない。
ジッ、と火種が潰える音がして、ほんの一瞬だけ青い炎が拳の中で揺らめいた。
『…………』
煙草の熱に顔を歪めることもなく、すっとカワキが手のひらを開くと——
その手にあったはずの煙草は跡形もなく消え失せていた。白い手に火傷はない。
『出るか』
それは、晩酌の終わりを意味していた。
良く言えば、マイペース。悪く言えば、気紛れで自分勝手なカワキが楽しみを中断せざるを得ない。
そう判断するだけの報せがカワキの携帯に舞い込んだのだ。
◇◇◇
空座総合病院
夜の街に人目は少ない。
それを良いことに、ビルの合間を縫って飛廉脚で駆けて来たカワキは、彼女のほかに連絡を受けた者達よりずっと早く目的の場所——空座総合病院に到着した。
病院の手前で地上に降りて、施錠された正面入口ではなく、救急入口から院内へと歩みを進める。
夜の病院は独特の雰囲気を漂わせていたが、カワキにとって夜の暗闇の中に恐れるものなど何もない。
しん、とした院内の廊下を抜け、階段を上がり、とある病室の前に辿り着く。
ネームプレートに書かれた名前は、先刻カワキの携帯に表示されたものと同じ——石田雨竜の四文字。
病室の前に立ち、スライドドアの取手に手を伸ばした矢先——
「来たか。君が一番早かったな」
伸ばした手が取手に触れる寸前、横からかけられた声に、カワキはぴたり、と手を止めて声がした方に視線を動かした。
『…………』
声の主に目を向けて伸ばした手を下ろすと、歩いてくる男性に軽く会釈する。
『……石田くんのお父様ですね? ご連絡ありがとうございます』
カワキが来た方角とは反対側の廊下の奥から、コツコツと革靴の音を響かせながら白衣を着た長身の男性が姿を現した。
一目で医者とわかる服装をした男性の名は石田竜弦。この病室に入院する石田雨竜の父親だ。
病室の手前、ドアの正面に立つカワキと少し距離を開けて竜弦が立ち止まる。
『ご子息の治療は、あなたご自身で?』
「ああ。医者だからな。それが何か?」
『……いいえ。何も』
カワキにとって竜弦は友人の父であり、竜弦にとってカワキは息子の友人だ。
しかし——向かい合う二人の間に流れる空気は穏やかとは言い難かった。
野生動物が互いに間合いを見極めようとしているような、静かで張り詰めた沈黙。
少し遠い距離で、二人の目が合った。
「君は今日の日中、雨竜と虚退治に行ったようだが……その時に何か変わったことはなかったか?」
『…………。特には。昼間の戦いで、石田くんに負傷はありませんでした』
「………………」
昼間の記憶を辿って視線を下げたカワキの答えに、竜弦がメガネの下でグレーの目を細めた。
感情が読めない表情で、くるりと下げた視線を動かして竜弦を見上げたカワキが、平坦な声で敵への推察を述べる。
『つまり、石田くんは万全の状態で瀕死の重傷に追い込まれた……敵は相当な手練れのはずです』
「どうだかな」
竜弦が息子がいる病室のドアを見た。
遠くの景色を眺めるように細められた目には、懐かしむような、愛おしむような、父親としての情が浮かんでいた。
それも束の間の事——瞬き一つで感情を切り替え、カワキに視線を戻す。
「……あの青二才のことだ。油断した隙をつかれたという可能性だって考えられる」
『油断、ですか』
「ああ。あいつはいつも詰めが甘い。君を見習わせたいものだ……——同じ、最後の滅却師として」
『………………』
カワキは何も言わなかった。
僅かな沈黙の後、目を伏せたカワキは首を横に振って言葉を紡ぐ。
『買い被りすぎです。現に、私はこうして連絡をいただけるまで、石田くんの負傷に気付かなかった。鈍っている証拠です』
常に気を張って霊圧知覚を研ぎ澄ませていれば気付けた、とカワキは自分の力不足を嘆いて溜息を吐いた。
ふいに、カワキが顔を上げる。
『それで、石田くんを追い込んだ敵は? あなたが仕留めたんですか?』
「……いや。それに関しては連絡した全員が到着してから話そう。二度手間になる」
『……そうですか』
会話はそれきりだった。
静まり返った夜の院内に重苦しい空気が満ちる。
そうしていると、いっそう消毒の匂いが鼻についた。
「………………」
『………………』
カワキと竜弦は、どちらも相手の出方を窺っている。
病室の前では、相手から少しでも多くの情報を引き出そうと……あるいは、少しの情報も渡すまいとして、無言の駆け引きが起こっていた。
互いに、視線は合わない。
沈黙を破ったのは、カワキが通って来た廊下から響くパタパタと走る足音だった。
「あっ! カワキちゃん!」
廊下の向こうから来た可愛らしい桃色のパーカーを着た栗色の髪の少女が、カワキの後ろ姿を見て思わずといった調子で声を上げる。
聞き慣れた声にカワキが頭だけで背後を振り向いた。
友人が重体だと聞いて駆けつけた栗色の髪の少女は、カワキの姿を見つけて心配で強張らせていた表情を幾分か和らげる。
「もう着いてたんだね」
『井上さん』
「……あれ? 何かおはなし中だった?」
栗毛の少女——井上の登場で、先刻までの重苦しい空気は立ち消え、カワキと竜弦は何事もなかったかのように動き出した。
何食わぬ顔で井上に歩み寄ったカワキが竜弦の顔を横目で覗き込む。
『昼間の石田くんの様子を少しね』
「……ああ。そんなところだ」
「……? そう、ですか?」
拭い切れない違和感に小さく首を傾げた井上だったが、すぐにハッと顔色を変えて竜弦に詰め寄った。
「あの……石田くんは……」
「病室だ。じきに麻酔が切れる。そろそろ意識も戻るだろう。中で待つと良い」
『…………』
「よかった……。ありがとうございます」
ほっと安堵の息を吐いた井上が、病室のドアに手を伸ばして取手を掴む。
そっと横に押すと、鍵のかかっていないドアは軽い音を立てて滑らかに開いた。
入室を止める者はいない。
ドアの手前で井上がカワキを振り返る。
「カワキちゃん、行こ」
『…………。ああ』
病室に入っていく二人の姿を見届けて、竜弦が踵を返した。
ゆっくりと閉じていくドアの隙間から、カワキは白衣の後ろ姿を黙って見ていた。
病室の入口で立ち止まるカワキに、井上が首を傾げる。
「……カワキちゃん?」
『今行くよ』
閉じ切ったドアに背を向けて、カワキは自分を呼ぶ声に応じて足を踏み出した。