書き散らし
その日は、生憎も生憎の天気であった。
土砂降りの路面を叩く音ときたら、イヤホンの音楽がろくに聞こえない程である。 時折大きな雷が鳴り、その瞬間だけは先の見えない真夜中の遊歩道を白く照らした。
少女は歩道の傍らのベンチに座って、アスファルトに弾ける雨粒をぼんやりと眺めていた。頭上のトタンに降り注ぐ独特な雨音は、苛立ちに荒んだ彼女の心をいくらか落ち着かせてくれる。
よくある思春期の親子喧嘩が原因で家を飛び出したのが1時間前。ビニール傘1本では濡れるのを免れない大雨だったが、今の少女にはむしろ心地よかった。
スマホのロック画面は午前1時を回った。母親のメッセージの通知が溜まっている。ああ明日も学校なのにな、何やってんだろ。少女はひっそりと自嘲した。
何の曲が流れているのかもはや分からなくなったイヤホンを乱暴に耳から外す。手持ち無沙汰に鞄の中を漁ると、買いっぱなしになっていた小説に気づいた。ちょうどいい機会である。少女は本を引っ張り出し、街灯のオレンジ色を頼りに表紙を捲った。
―――
その日の少女は、ついていなかった。
何とか終電に滑り込んだはいいものの、雷雨で地上線は止まっていた。
仕方なく地下鉄の終点で降り、タクシーでも呼ぼうかと考えたが、まあここから家までは1駅だし歩けないこともないか、と金をけちった。
それが間違いといえば間違いだった。雷雨の中まともに歩いて帰れる方がどうかしている。
駅を出て数分で、足元も鞄もずぶ濡れだった。スニーカーから染み込んだ雨の靴下を濡らすことが、なんと気持ちの悪いことか。
この不快感から一刻も早く逃れたい一心で、少女は公園の遊歩道を使ってショートカットすることにした。
黒黒と先の見えない道を、ぽつぽつと街灯が照らしている。晴れていれば街路樹の影が落ちて不気味なのだろうが、大雨で霞む視界には、ぼんやりと輝く街灯のオレンジ色が、ともすると幻想的ですらあった。
歩道に浮かび上がった光の水たまりを、少女は足早に踏んでいった。
―――
視界の右端からぱしゃぱしゃと、水の跳ねる音が近づいてくる。少女は不意に顔を上げた。
いつもより少し速く流れていく景色の左端で、何かが動く。少女の足は不意に止まった。
なんとはなしに、目が合った。
ふたりの間に、今までで一番長いと感じるような、一瞬の間ができた。雨音が遠のいていく。耳の奥で雷鳴が聞こえる。
ほんの一拍置いて、家出少女の方が、かすかに気まずそうな会釈をした。それを見て、弾かれたようにずぶ濡れ少女の意識も戻ってきた。軽く頭を下げ返す。
そのまま立ち去れば良かった、というか普通はそうするのだろうが、何故か少女はそれが出来なかった。真夜中の遊歩道の傍らで、どういうわけか一人佇む少女の様相が、彼女の心を引き留めていた。雨音がトタンに響いている。
「…………えっと」
家出少女が口を開いた。自分から話しかけておいて、何を言うべきか迷っているようだった。それを見て、我に返ったずぶ濡れ少女が口を開いた。
「…………あのさ、こんなところでどうしたの?」
少女はぶっきらぼうに尋ねたが、言葉とは裏腹に心配してくれているような雰囲気を感じた。
「あー…………うん、ちょっとね」
「ふぅん」
会話が途切れた。そこでようやく、ずぶ濡れ少女は自分が帰路の途中、妙な立ち往生をしていることを自覚した。
家出少女の方も、同じことを考えていたらしい。
そして、お互いに何も言わないまま、しばらく時間が過ぎた。
先に沈黙を破ったのは、ずぶ濡れ少女の方だった。
「その…………ごめん、変なこと聞いて。 雨宿り?」
「ああ、まぁそんなところかな」
家出少女は曖昧に答えた。こんな所で奇妙に出くわしただけの他人に、家出の話をする必要もないだろう。
「そっか。…………じゃあ、私もう行くから」
そう言って、ずぶ濡れ少女は視線を夜道の先へやった。そしてわずかに逡巡して、一歩踏み出してそのまま歩き出した。今度は、ゆっくりとした足取りだった。
雨音が遠のいている気がする。街灯の光が、幾分かはっきりとしてみえる。雨粒弾ける水たまりを、街路樹の影が覆っていた。
コツコツ。ピシャピシャ。2つの音が混じりあった足音と共に、ビニール傘が遠ざかっていくのを見送った。
家出少女は急に、ここにいるのがなんだか馬鹿らしくなってきた。多少ページの進んだ小説を、雑に鞄に戻した。立ち上がって傘を差す。トタンに響く音が控えめになっていた。家出少女は、ずぶ濡れ少女が歩いていった道をちらりと振り向いた。
その瞳は、不思議と晴れやかだった。