【晴晋】虎の尾を食む

【晴晋】虎の尾を食む


 食堂で適当なワインを数本見繕い、誰がしかでも誘って飲み明かすか、と意気込んでいた矢先のことだ。割り当てられた部屋のドアを開けたとたん飛び込んできた光景に、僕は不覚にも大爆笑させられることになった。

 ドアから連なる部屋の奥、据え付けられたベッドの端に、いかにも意気消沈した男が丸い耳と尾を携えて鎮座していた。


「ワッハハハハハハハ!何面白いことになってんだ君!もしかして虎が本体だったのか?とうとう人間に化けるのに失敗したって?」

「……場を間違えたか」

 ひとまずワインはテーブル脇に立てかけておく。飲むより面白いモノがやってきたのだ。肴にするにはまだ早い。

 いまだ笑いが引かないまま揚々と振り返る僕に投げられたのは、深く長いため息と憮然とした呟きだった。勝手に人の部屋に居座っておいて一言目がそれか。信玄公と言えど、この僕相手になんとも失礼極まりない。

「あのなあ、こうやって笑われるのも織り込み済で来たんだろうが。僕に当たるつもりなら君でもとっとと追い出すぞ。

 ……で?どうした?」

 ため息にため息で返す僕に思うところがあったのか、晴信はすまない、と一言断ってこちらに目を合わせてきた。彼の薄い色素はそのままに、細まった虎の瞳孔は獰猛さよりは不安を伺わせる。晴信にしては珍しい、わかりやすい弱気がそこには見えた。

「レイシフトから戻ったらこの有様だ。幸い管制室にシオンとダ・ヴィンチは残っていた。

 『拡散する呪いの類でもなさそうだし。とりあえずどこかで詳細解析を待っててくれるかな?』

 それが彼女らの指示だった、……の、だが」

「そんな愉快な格好でフラフラしてたら、ま、イジらない理由はないよなぁ!それで面倒除けに僕の部屋に?

 おいおい、かの信玄公相手に困ったら来いって言ったの誰だよ。……いや、僕だな。僕だった、うん」

「なに、お前なら悪い様には扱わないだろう」

 こちらを見据える晴信の瞳には揺るぎない信頼が乗っていて、それが僕には少しばかり据わりが悪い。彼の言う悪と僕の善悪の天秤はだいぶん異なるのだが、ここでそれを指摘するのは野暮にも過ぎる、というのもある。だいいち面白くない。せっかくこんな絶好の機会なのにだ。

 座っている晴信の前へ足を進めて、その頭に指を絡めてみる。僕の解析を当てにでもしているのか、晴信は特にそれを咎めはしなかった。

「こっちも聞こえてるのかい?」

「いや、穴すら開いていない。尾も含め、『皮膚、体毛の変形及び拡張』とのことだ」

「へえ」

 頭頂から横、人間の耳に至る線上に平素にはない丸みがある。指でなぞった感触も晴信の言うとおり髪の延長だ。肉厚な虎耳を覆う短い毛は普段触れるものとは異なる柔らかさがあり、指で挟んで軽く力を入れると、ふるりと揺れて逃げようとする。本物の虎と同じように随意で動かせる筋肉まであるらしい。

「根本の継ぎ目もなし、と。呪いにしろ霊基異常にしろ随分マニアックな構築だな、コレ」

「……わかったなら、あまり触れるな」

 すぐ下から気まずそうな声が聞こえてきて、怪訝に思うまま晴信の顔を覗きこんでみる。憂鬱そうに寄せられた眉の下で、逸らされた瞳がかすかに揺れていた。引き結ばれた唇は何かを堪えているかにも見えて、目にしたとたんに、あ、キスしたいな、と思考が明後日に飛びかけた。

 つまりは、可愛い。

「ハハッ、愛いなきみ!よし、乗るぞ晴信」

「は?いや待ておい!」

 返事は聞かずに晴信の膝の横に己の膝を乗り上げる。ぎし、とベッドが沈んですぐに、慌て交じりの大きな手のひらが僕の腰を支えてくれた。生憎と造形は人の手のままで、こっちは肉球じゃないのかと少しばかり期待外れでもある。

「うんうん、随分と愛らしい様じゃないか!」

 晴信の頭を抱き込んで、改めて虎耳に指をかける。逃げるさまを追いかけながら、時折叱りつけるようにきゅっと指で挟んでやる。

 胸元にかかる晴信の吐息が徐々に熱を持っていくのも、腰にかかった指の力が次第に強くなっていくのも、恨みがましそうに漏れるうなり声ですら、目眩がするくらいに気分がいい。

 つい楽しくなって虎耳に唇を落としたところで、腕を軽く横に引かれた。視線を落とした先で、ふわふわと太い尾が僕の肘に巻き付いていた。いわゆる虎のものよりは幾分か長めだが、色合いは晴信の髪のもので、なるほどこれも動かせるらしい。

「なあ晴信、顔を上げなよ」

「……なんだ」

「フッハ!拗ねるなって、ホラ」

 ぶっきらぼうに返事をしながらも、晴信は緩めた腕の中でこちらを見上げてくれた。その視線を十分に集めて、尾が絡まった方の腕を自分の口元に近づけていく。横合いからかぷ、と尾に噛みついたところで、腰ごと勢いよく引き剥がされた。

「っ……おい晋作!いい加減に……!」

「そうだな。そろそろ『いい加減』かもだ。さすがに僕も途中でやめる気なんておきない」

 浮かれきったテンションにまかせて、晴信の肩ごとベッドに飛び込んでいく。僕に覆いかぶさったまま固まっている腕に指を滑らせて、上機嫌に笑いかける。

「おいで晴信。時間つぶしにつき合ってやる。そろそろ君が愛でる番、だろ?

 ……それにそうだ、歯形はつけてくれるなよ。消すのが惜しくなる」

 からかい混じりの僕の言葉に、晴信は猫だましでも食らったみたいに瞬いて、それからふ、と口元を緩めた。

 お、ようやく笑ったな。

 毒気の抜かれたその笑顔を見て、何ともらしくない甘ったるい心地に僕はついふは、と吹き出してしまった。


Report Page