星と龍
ー記録、2013年1月12日
「今日の仕事も味気ないわねぇ…これくらい父様でもできるでしょうに」
そう呟くと薫子は顔に付いた返り血を拭った。呪詛師である彼女には今日は高専所属の術師3名の暗殺依頼が来ていた。正直等級も低いので薫子本人はスルーしたい案件だった。だが彼女にはそれができない。
「…絶対服従、だもんねぇ…」
タートルネックで隠された彼女の首には首輪のような痣がある。剣家に伝わる呪術、『隷属の呪印』である。薫子と彼女の妹、霧子は幼い頃…まだようやく喋れるようになった頃にこれを刻まれた。呪印は被呪者の宣誓を条件に発動し、術者への絶対的な服従を強制する。また被呪者は術者に危害を加えることもできなくなる。
「…ま、父様が自慢するのも分かるけどね。私達には首輪がいる…か」
薫子は父、剣夜守を見下していた。大した強さもなく、幼子に呪印を刻み支配するこの男を、どうしようもなく軽蔑していた。薫子は現在16歳にして剣家最高の術師としてのキャリアを積み重ねていた。それに従って、彼女の中にはむず痒さのようなものが蓄積していった。なぜ、自分よりも弱い奴らに従わなくてはいけない?なぜ、自分よりも弱い奴らに辱められなければならない?…なぜ、妹に触れることすら許されない?突出した力を持つが故に剣家の中で腫れ物のように扱われた薫子が唯一心を開く存在がいた。妹の霧子である。彼女は薫子を「お姉ちゃん」と呼び、純朴な笑みを浮かべる。こっそり持っていったお菓子をもつもつと必死に食べる姿も愛らしい。霧子は普段地下牢に閉じ込められ、誰かの任務があると荷物持ちとして駆り出される。この家では術式を持たない=人権がないなのだ。家中の者は口々にこう言った。
「薫子様は霧子の分の力まで持って生まれてきたのだ」
「霧子は所詮薫子の残り滓だ」
それを聞くたびに薫子は彼らを殺してやろうかとも思った。だが呪印により家中の者への手出しも禁じられていたため、鬱屈とした日々を過ごしていた。
薫子の母親はとある術師の名家の令嬢だった。詳しい事情は薫子も知らないが、父・夜守は任務で負傷した彼女を攫い自分の妻にしてしまったらしい。片腕片足を失っていた彼女に逃げられるわけもなく、薫子と霧子の2人を産んだ。霧子を産む時の出血が激しく、数日で死んでしまった。父は特に悲しむ様子はなかった。
薫子には母の記憶がほとんどない。まあ、当然だろう。秩序側の思想でも吹き込まれれば事だ。だが…2人を産んだことから考えるに、きっと優しい人だったのだと思う。霧子は母の忘れ形見だ。だから余計に愛おしい。いつかきっと、2人でこの家から出て行くんだ。そう薫子は誓った。
「…で、未だに父様に服従とは…上手くいかないものだね」
鎌の血を拭き取り、そう呟くと薫子は懐からスキットルを取り出し、中のウイスキーを流し込んだ。家の倉庫からこっそり持ち出したものだ。酒を飲む時ととクラシックを聴いている時だけは、嫌なことを忘れられる。
「…ケプッ」
酒臭い息が漏れる。退屈。鬱屈。特に張り合いのない日々が続く。このまま父に使い潰されて時間を過ごして行くのか?そう考えるとまた憂鬱になる。再び酒を流し込んだ。
「未成年飲酒だろう?それ」
暗い路地に凛とした声が響く。視線を向けると、背の高い金髪の美女が佇んでいた。その周りを漂う式神が、彼女が術師であることを宣伝する。
「…お姉さん、何者?もしかしてこの人の知り合いだったり?」
「いいや。私は別件で用があってね。剣薫子…だよね。どんな男が好みだい?女でも構わないが」
「男は嫌い。妹以外の女にも興味ないわ」
「ふぅん…つれないねぇ。君、まだ16だろ?ウイスキーなんか飲んじゃって、早死にしても知らないよ?」
「貴女には関係ないでしょ。で、お姉さんは誰?」
「…特級術師、九十九由基。と言えば分かるかな?」
「特級…!」
一瞬、薫子の顔が青ざめる。特級と言えば人間では現呪術界に3人しかおらず1人でも国家転覆が可能とされる文字通りの特別枠。事実、剣家の誇る名だたる術師達も同じく特級の五条悟に何人も屠られている上、一度五条の襲撃に遭い本家を移転する羽目にもなった。その時の人的、物的被害も尋常ではなかった。
「…それで、要件っていうのは?」
「心当たりは?」
「あり過ぎてどれだか分からないな」
「そうか。確かにその若さでここまで罪を重ねた子も少ない…。今回私が派遣されたのは『呪物作成疑惑』と4年前の『××村住民殺害事件』について。覚えがあるだろう?」
「あー…あれね。うん。そうだね間違いないね」
「村を一つ壊滅させたのは言わずもがな、君が作成した疑惑のある呪物が裏ルートで出回っている。なまじ性能がいいのが癪に障るね」
「褒めてくれて照れちゃうな…」
「そういうわけだ。君に対して死刑執行命令が出されている…これ以上は言わなくても分かるだろう」
そういうと九十九は羽織っていたコートを脱ぎ捨てた。しなやかな腕の筋肉が顕になり、式神が戦闘体制に入る。
「…特級と戦えるなんてそうそう出来る体験じゃないからね。ま、生きるか死ぬかは運次第、かな」
薫子も拭いたばかりの鎌を構え、指に押し当てる。垂れた指の血が地面に滴った。
「…『竜子、殺すを好む』。おいで、睚眦(がいし)」
血溜まりから二足歩行の龍のような式神が出現する。一瞬の沈黙。最初に動いたのは睚眦だった。
『ガァァァッ!!』
鋭い爪が九十九を襲う。だが九十九は冷や汗一つかくことなく、蹴りのフォームをとった。
「凰輪!!」
側の式神が丸まりさながらボールのように変形する。それを手に取ると九十九は思いっきりそれを蹴り上げた。
ボッ!!
凰輪はまるで豆腐を崩すように楽々睚眦の体にめり込み、鈍い音がしたと同時に睚眦の上半身は粉々に消し飛んだ。
「!!(いくら攻撃特化、再生能力ありきとはいえ睚眦がここまで簡単に破壊されるなんて!!)」
「余所見は禁物だぞっ!」
ドゴシャッ…!!
何かが潰れる音と共に九十九の拳は正確に薫子の腹を捉え、彼女を大きく吹き飛ばした。奥の壁に激突し、土煙が巻き起こる。
「ゲホッ…オエッ…!!今ので…内臓潰された…!!」
瓦礫の中から這い出た薫子は血と吐瀉物の混じったものを吐き出した。全力で反転術式をかけ治療しているがそれでも鈍痛は治らない。
(ほんの一発殴られただけで…これが…!!)
「ほう…その歳で反転使えるのか。大したものじゃないか」
九十九はゆっくりと距離を詰める。手には先程の式神…凰輪が握られている。九十九は凰輪を鞭のように振り回し始める。重く風を切る音が路地に響く。
「…本来なら高専の依頼は受けるつもりはないんだけどね。今回は友人の仇討ちも兼ねているんだ。君に殺された研究仲間のね」
「はは、誰だったかな…」
薫子が口を開いた瞬間、凰輪が彼女の顔を掠めた。頬にじんわりと血が滲む。
「手加減はしないよ」
砂塵を巻き上げ凰輪が薫子めがけて振り下ろされた。薫子は咄嗟に血を地面に落とす。
「『竜子、閉じることを好む』…椒図、お願い!」
『ゲロッ』
カエルのような式神が現れ、両手を合わせた。次の瞬間、凰輪の攻撃は明後日の方向に直撃する。その後の攻撃も薫子に届くことはない。
(なるほどあの式神…不可侵の簡易領域を展開する感じか?あの場から動かないのを見るにあの位置に固定されるのが縛りと見て良さそうだ)「…だが!!」
(また蹴り込むつもり…?椒図の領域は絶対不可侵、どんな攻撃だって…)
「これには耐えられるか!?」
満身の力を込めて凰輪を蹴り上げる。砲弾のような勢いで飛んできたそれはこれまでのように別の方向に逸れる…ことはなく椒図を貫通し、そのままの勢いで背後の薫子右肩を抉っていった。飛び散る鮮血。薫子が状況を理解するまでに一瞬のタイムラグがあった。
「〜〜っ!!(椒図の不可侵を無視された…!?訳が分からない…!!)『竜子、吠えることを好む』…蒲牢(ほろう)!!」
『ガオォォォ!!!』
ライオンのような式神が口から衝撃波を発する。周囲の瓦礫が一斉に吹き飛ばされる。しかし、九十九は手に持った凰輪を地面に突き刺しその場に留まった。衝撃波が止んだと見るや即座に攻勢に転じ、瞬きする間に蒲牢の頭は飛ばされていた。薫子の顔から血の気が引いていく。
(回復する暇もくれないってか…。これが…特級…)
蒲牢を仕留めた凰輪は勢いそのままに薫子の顔面に向かう。反転術式を使える相手には首を落とすか頭を潰すかするのが常道だ。
(ここまで格が違うなんて…ああ、なんて…なんて…!!)
自然と笑みが溢れる。九十九はそこに計り知れない狂気性を垣間見た。自分の死に際にこんな表情ができるのは術師にもそういない。
「なんて新鮮なんだろう!!いいなぁ生きるって!!」
薫子は無意識に印を組んだ。何度か試してはみたが今一つ掴めなかった感覚。今ならできるという奇妙な確信があった。
「領域展開!!」
直後、九十九の体は亀のような式神…贔屓によって押しつぶされていた。九十九の呪力防御によっていくらかは耐えていたが、それでも大ダメージには変わりない。
(チッ…簡易領域が間に合わなかったか。それにしてもこの歳で領域までモノにするとは…呪詛師にするには勿体ない逸材ね)「ふんっ…!!」
きしむ体に鞭打ち九十九は贔屓を持ち上げる。
「悪あがきね…狴犴(へいかん)!!」
九十九の腹を狙い狴犴が拳を突き出す。
ドムッ…!!
重い音と共に九十九は体勢を崩し、贔屓の重さにより足に重大な負荷がかかる。
「くっ…!」
(このまま頭を潰せば私の勝ち…!勝てる、特級術師に…!!)
「…とでも思ったかい?」
勝利を確信していた薫子に九十九は笑いながらそう言うと、わざと体を傾け贔屓を盾にする形で狴犴の拳を受けた。ちょうど贔屓で隠れて九十九の姿が消える。
「上手く逃れたようね…でも領域内にいる限り…」
その時、薫子は違和感を覚える。さっきまで存在を知覚できていた九十九の位置が、今は分からない。贔屓の必中命令は既に出しているはずなのに。
「どういうこと…?…まさか!」
薫子がその答えに気づいた瞬間、目の前が真っ暗になった。脳天に鈍い痛みが響き、鼻の奥が鉄臭くなる。贔屓と狴犴が破壊されたのを感じる。薄れゆく意識の中で、薫子は自身の敗北を悟った。
「その様子を見るに、どうやら簡易領域使いと戦った経験は無いみたいだね。家で習わなかったかい?」
「う、ぅぅ…」
「ま、領域の仕様も甘かったし実戦で使うのは初めてだったのかな?いずれにせよまだまだ青いね」
「簡易…領域…。そっか、そんなのもあったね…すっかり忘れてたわ…。まさか特級がそんな小技を使うなんて…」
「小技には小技なりの価値があるものさ。事実、簡易領域だからこそ術式との併用で君を倒せた訳だからね」
「はは…勉強になるなぁ…」
血塗れになり朦朧とした頭で薫子は笑った。反転で傷は治しているがあまりにダメージを食らいすぎた。もう術式を行使する呪力は残っていないだろう。それでも、今日の戦闘を次に活かさなくては…そこで薫子の意識は途切れた。
「…さて、気絶してる所悪いが死刑を執行しなくてはね」
九十九が凰輪を構えた瞬間、九十九の携帯が着信を知らせた。
「誰だこんな時に…総監部?はい、もしもしこちら九十九です…。は?どういうことですか?事情が変わった?はぁ、分かりました…では」
不機嫌そうに電話を切ると苦々しい面持ちで凰輪を下ろした。
「…剣薫子の即時死刑を取り消し、尋問による呪物売買ルートの洗い出しを優先…か。いくらなんでもタイミングが良すぎる…監視でもされているのか?まあいい…そういうわけだ。ほんの数週間だが、延命されたぞ、剣薫子」
九十九はぐったりとした薫子を凰輪で拘束すると、その横にどっかりと座り込んで高専の護送車が来るのを待った。
「うぅ、寒っ。全く…こんな若い女を好き勝手にするなんて、呪詛師ってのは本当に終わってるね」
薫子の懐からスキットルを取り出す。中身は半分くらい残っていた。
「16から酒なんて飲むもんじゃないからね。これは没収しておくよ」
そう言うと九十九は蓋を開け、中のウイスキーを一口飲んだ。酒混じりの白い息が暗闇に吐き出される。
「…クソッ、いい酒じゃないか。こんなのガブガブ飲んで…罰当たりもいいとこだよ」
九十九との戦闘から数日後、薫子は高専の地下室に拘束されていた。手は後ろ手に縛り上げられ、呪詞を唱えられないように必要時以外は猿轡を噛まされていた。地下牢、拘束、まずい飯…どれも薫子が嫌いなものばかりだった。肝心の尋問はまだ行われない。どうやら明日から九十九が担当するようだ。
(あのお姉さん…九十九なら、話し相手になってくれるかな)
お喋り好きの薫子からすれば誰とも話せないのも苦痛だった。そして薫子は、九十九に無意識の好感を抱いていた。戦って分かった。彼女は家の奴らのような陰湿な人間ではない。寧ろさっぱりとして、負けても仕方がないと思える何かがあった。日に日に彼女に会いたい気持ちが募る。
(九十九さん…会いたいなぁ…。あの人知識豊富そうだし、色んな話がしたいなぁ)
「やぁ、剣薫子だね?」
気づけば、目の前に知らない女性が佇んでいた。中々の美人…だが額に走る横一直線の縫い跡が痛々しい。彼女はゆっくりと近づき薫子の猿轡を外した。
「…お姉さん誰?九十九さんに代わる尋問官…じゃあないよね」
「尋問はしないよ。ただ…君に少し興味があってね。君の作った呪物、独創的で中々面白かったよ。この才能をみすみす逃すのも惜しいから…総監部に掛け合って死刑を一時取り消してもらったのさ」
「私に会ってどうするつもり?」
「はは、そうだねぇ、強いて言えば…私の手伝いをしてくれないかい?何、難しいことじゃない。舞台スタッフのアルバイトみたいなものさ」
「…何をする気?テロとか?」
「詳細はまだ言えないが…術師によるバトルロイヤル開催、とでも思っていてくれ。協力してくれるならここから出してあげるよ」
「…ここから出れるならなんでもするよ」
「いい返事が聞けて嬉しいよ。じゃあ、行こうか」
縄が解かれ、薫子は自由になる。
「術師によるバトルロイヤル…か。色んな技術が見れそう…今からでもワクワクするなぁ!!」
「…呪術は好きかい?」
「うん。まだまだ知らないことが沢山ある…全部知りたい、全部モノにしたい」
「貪欲だね。良いことだ…とても良い。君のような知識に貪欲なタイプが最近少なくなっててね…」
「そういえば…お姉さん、名前は?」
「…虎杖香織。今はそう呼ばれているよ」
ー2013年1月30日、呪詛師剣薫子が不明な手段で高専から脱走。作成呪物の売買ルートも明らかにできず、総監部は現在対象の等級を一級から特級に引き上げるべきか検討中とのこと。尚、九十九術師への責任問題は当術師が同時刻に別件に対処していたことも考慮し今回は不問とされた。