新米魔女の初恋の話

新米魔女の初恋の話



 いつかの時代、どこかの世界。

 これはまだ、新米魔女が幼い少女だった頃のお話です。


 その日、スレッタはお母さんに連れられてペイル街へとやって来ていました。

 なんでもお母さんの昔からの知り合いがこの街に住んでいるらしく、その人に用事があるのだとか。

 スレッタは物心ついた頃からずっと森で暮らしていて、森を出て街へとやって来たのはこの時が初めてでした。

 お母さんに手を引かれながら歩く街はスレッタにとっては初めて見るものばかりで、スレッタは目を輝かせながらいろんな場所へと視線を映します。

 あれは何?これは何?としきりに聞くスレッタにお母さんは苦笑して、迷子になったら大変だからお母さんから離れちゃダメよ、と釘を刺しました。スレッタはそれに元気よく返事をします。

 しかし、今まで絵本の中でしか見たことのなかった外の世界は、幼いスレッタの心を踊らせて注意を怠らせるには十分すぎるものでした。

 見慣れないものに夢中になるあまり、スレッタは無意識にお母さんの手を離してしまっていました。スレッタ!?という慌てたお母さんの声も、街行く人の声にかき消されてスレッタの耳に届かず、ふとスレッタが気付いた時には、お母さんの姿はどこにも見当たりませんでした。


「お母さん……?」


 キョロキョロと辺りを見回してもお母さんの姿はなく、周りにいるのは知らない人や知らないものばかり。

 スレッタは途端に怖くなって、お母さんを探そうと走り出しました。

 しかし、初めてペイル街に来たスレッタに土地勘なんてものがあるはずもなく、むしろいたずらに走り回った事で気付けば人通りの少ない閑静な路地裏へと迷い込んでしまっていました。

 薄暗くて人通りのない路地裏はゾッとするほど静かで、まるで自分だけが誰もいない世界へと置き去りにされてしまったかのような気さえしてきます。

 自分が今どこにいるのかさえ分からないスレッタはもう、ただ震えてその場にうずくまる事しかできませんでした。


 どのくらいの間そうしていたでしょう。もしかしたら数分だけだったのかもしれないし、1時間以上経っていたのかもしれません。膝を抱えて座り込み、ギュッと目を閉じていると嫌な想像ばかりしてしまいます。

 ──もし、このままお母さんと会えなかったらどうしよう。ここから出られなかったらどうしよう。私どうなっちゃうのかな。もしかしたら死んじゃうのかな。

 固く閉じた目の奥がじんわりと熱くなったその時でした。


「……そこで何してるの?」

「…………ぇ?」


 突如降ってきた柔らかな声に、スレッタは驚いて顔を上げます。

 そこには、スレッタと同じくらいの年頃の男の子がいました。

 男の子は手に紙袋を抱えていて、座り込んだスレッタに視線を合わせるようにしゃがんでジッとスレッタの顔を見つめています。


「君、ここらへんの子じゃないよね?迷子?」

「え、えっと……その……」


 同年代の子供と話した事がないスレッタはどうしたらいいのか分からずオドオドと視線を彷徨わせます。

 すると、


ぐぅ〜


「っ!?」

「……おなか空いてるの?」

「〜〜〜っ」


 スレッタのお腹から、大きな音が鳴りました。慌ててスレッタはお腹を抑えましたが、その音は男の子にもしっかりと聞こえていたようで、コテンと首を傾げながらそう尋ねられ、スレッタは顔を真っ赤にして俯きました。

 男の子はスレッタの顔を見た後、少し考えるような素振りをしたかと思うと、徐に抱えていた紙袋に手を突っ込みます。そして、紙袋の中からパンを一つ取り出すと、それをスレッタに差し出しました。


「…これ、食べる?」

「ぇ……いい、んですか?」

「うん。固くなって安売りやれてたやつだから、あんまりおいしくないと思うけど…」

「あ、ありがとうございます…いただきます…」


 男の子からパンを受け取り、スレッタは小さな口でそのままパンにかぶりつきます。

 男の子の言った通りパンは固くなっていて、普段スレッタが食べているパンと比べたら圧倒的に味は劣ります。

 けれど、その時のスレッタにはそのパンがとても美味しく感じて、スレッタはそのまま二口、三口とどんどん食べ進めていきます。

 そしてパンを食べ終えた途端スレッタの目からポロポロと涙が溢れ、しまいには声を上げて泣き出してしまいました。きっと空腹感が消えた事で緊張の糸が切れてしまったのでしょう。


 突然泣き始めたスレッタに男の子はギョッとします。まさか泣くとは思っていなかったのか困惑した様子でスレッタを見つめていましたが、やがておずおずと手を伸ばし、ゆっくりとスレッタの頭を撫で始めました。

 その手つきがあまりにも優しくて、スレッタは余計に涙が止まりませんでした。


 ひとしきり泣いたスレッタの涙がようやく落ち着いてスンスンと鼻を鳴らし初めたのを見て、男の子は口を開きました。


「…落ち着いた?」

「……はい、ありがとう、ございます…」

「うん」


 結局スレッタが泣き止むまでの間、男の子はずっとスレッタの頭を撫でてくれていました。

 そっと放された手を僅かに名残惜しく感じながら、スレッタはお礼を言います。男の子はそれに短く返事をすると、徐に立ち上がるとスレッタに手を差し出しました。スレッタはきょとんとして差し出された手をじっと見つめます。


「……?」

「…ここ、暗くなると怖い人とかが来るようになるから。人の多いところに移動した方がいいと思って」

「えっ」

 

 怖い人、という言葉にあからさまに怯えるスレッタに男の子は苦笑して「今はまだ明るいから大丈夫だよ」と言いました。


「でも、ずっとここにいるとよくないのは本当だから。ついてきて」

「あっ」

「……イヤだった?」

「っイヤじゃ、ないです…」

「そっか」


 そっと手を握られた事に驚いて声を上げると、男の子はスレッタの表情を伺いながらそう聞いてきました。それに慌ててスレッタが答えると、男の子は心なしかホッとした様子で握った手に僅かに力を込めました。

 握られた手が何だか熱くなったような気がして、スレッタは生まれて初めて感じる胸の高鳴りに戸惑いながら男の子の手をキュッと握り返しました。


 男の子に手を引かれるままに歩いていると、あっという間に人通りの多い道へと戻ってくることが出来ました。

 男の子はスレッタが話す僅かな記憶をヒントに、スレッタがお母さんとはぐれた場所を目指します。

 そして一番強く印象に残っていたお店の看板がある場所に着いたその時、不意に背後から「スレッタ!!」という声が聞こえました。

 その声に振り返ると、お母さんが必死な表情でスレッタの方へと走ってきているところでした。


「お母さん!」

「スレッタ!!」


 スレッタが思わず男の子の手を離してお母さんに駆け寄ると、お母さんは力一杯スレッタを抱きしめてくれました。


「どこに行ってたの!?心配したんだから!」

「ごめんなさい……」

「ああもう、本当に無事で良かった…!」


 目に涙を浮かべながらスレッタを見つめるお母さんの姿に引っ込んでいたはずの涙が再び溢れそうになりましたが、その時男の子のことを思い出してハッとしてスレッタは口を開きます。


「あっ、あのね!このお兄ちゃんがここまで連れてきてくれたの!」

「まぁ……」

「……どうも」

「あと、パンもくれたんだよ!」


 スレッタがそう説明すると、お母さんは目を丸くして男の子を見ます。対する男の子は少し居心地が悪そうに会釈をしました。


「うちの娘が本当にお世話になったみたいで……ごめんなさいね。ほら、スレッタもちゃんとお礼しなさい」

「……えっと、その……あ、ありがとう、ございました……!」

「……うん」


 そうお母さんに促され、スレッタはもじもじしながら男の子にお礼を言いました。男の子もどこか照れくさそうにしながら返事をして、その微笑ましい光景にお母さんは「あらあら」と口元に手を当てて笑います。


「改めて、娘を助けてくれて本当にありがとう。そうだ、お礼になるかは分からないけど…コレ、良かったら貰ってちょうだい」


 プロスペラはそう言って、手に提げていた袋を男の子に手渡しました。

 袋の中には王都にある有名なお店のパンが入っていて、男の子は驚いて袋を返そうとします。


「こ、こんなのもらえません!別にお礼がほしくてやったわけじゃないし……!」

「いいのよ。本当はベルへの手土産のつもりだったけど、よく考えたらベルはこういう食べ物よりもうちの森にしか生えてない薬草とかの方が喜ぶし……むしろ娘を助けてくれた恩人に何のお礼もしなかったなんて言ったら、かえって怒られちゃうわ」

「でも……」

「お願い、これは親としても大人としてもやらなきゃいけない事だから。ね?」


 そこまで言われてしまい、さすがに断る事も出来なくなった男の子は渋々といった様子で袋を受け取り、そして「ありがとうございます」と頭を下げました。


「お礼を言うのはこっちの方よ。それじゃあ私達もう行くから、あなたも気を付けて帰ってね」

「はい」

「あっ……あの!」


 そう言って、お母さんはスレッタの手を握ってその場を離れようとします。スレッタは慌てて振り返り、男の子の顔をまっすぐに見つめて声を張り上げました。


「本当に、ありがとございました!パン、すっごくおいしかったです!もしまた会えたら、絶対にお礼しますから!約束します!」


 どうにかして感謝の気持ちを伝えようと叫んで、腕がちぎれそうなほど力強くブンブンと腕を振るスレッタに男の子は目を丸くしていました。

 そして……


「──うん、またね」

「! はいっ!!」


 そう言って小さく笑って手を振る男の子の言葉に、スレッタは力一杯答えました。

 そして男の子とスレッタは、お互いの姿が完全に見えなくなるまでずっと手を振り続けていました。



「スレッタ、もう絶対にお母さんの手を離しちゃダメよ?あなたとはぐれてから、お母さん生きた心地がしなかったんだから」

「うん。ごめんなさいお母さん」

「でも、本当に何もなくて良かったわ。あの子には感謝してもしきれないわね」

「…………」

「スレッタ?」


 スレッタが突然黙り込んだので、お母さんは何かあったのかと足を止めます。

 しかし、そんなお母さんの心配とは裏腹にスレッタは何かを決意したかのような表情でお母さんを見上げました。


「決めた!私、お母さんみたいな魔女になる!」

「えっ?」

「それで、あのお兄ちゃんがしてくれたみたいに、困ってる人を助けたい!」


 お母さんは驚きました。

 なぜならスレッタがこうしてハッキリと魔女になる、と言ったのはこの時が初めてだったからです。

 そしてそのきっかけは間違いなく先ほどの男の子であり、それだけスレッタにとって彼との出会いは大きなものだったという事でしょう。


「……ふふっ。そうねぇ、それなら沢山本を読んでいっぱい勉強しないとね?」

「ぅ……が、がんばる!」

「立派な魔女になったら、さっきの子……スレッタの王子様にもきっとまた会えるんじゃないかしら?」

「おっ王子様!?」

「あら、違うの?お母さんてっきりスレッタはあの子の事が好──」

「お母さん!!」


 顔を真っ赤にして叫ぶスレッタに、とうとうお母さんは堪え切れなくなって笑いました。それを見たスレッタが真っ赤な顔のまま笑わないで!とお母さんをポカポカと叩きます。

 こうしてスレッタは魔女を志すようになり、その日から猛勉強を始めました。

 その原動力の一つが名前も知らない男の子への淡い初恋である事を知っているのは、スレッタのお母さんだけです。


 そしてその10年後、新米魔女となったスレッタは初恋の男の子と思わぬ形で再会する事になるのですが、それはまた別のお話……。


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