改稿

改稿


 夢だった『トレセン学園のトレーナー』として就職が決まった時、まず用意したのはお弁当箱だった。


 まるであたらしいランドセルに心を弾ませる新一年生みたく、いくつかのカラーバリエーションから悩みに悩んで決めた、ターコイズブルーのステンレスランチジャー。ご飯もスープもあたたかいまま持ち運べる! 春からの新社会人におすすめ! ハッピーなランチタイムを、なんてお墨付き。

 実家からトレセン学園はそう遠くはなかったけれど利便性を考えてトレーナー寮への入居を決めていた。担当ウマ娘が早く決まるとも限らなかったんだけどね。でも、トレーナー仕事は体力勝負って先輩トレーナーから耳タコなほどに聞かされていたし。

 朝食をとるついでにほかほかの炊きたてごはんと、ていねいに作ったスープとおかずをランチジャーに詰めて──充実した食生活を!


 なんて、胸踊らせながら購入したランチジャーが戸棚の奥にしまわれてどれくらい経ったかなぁ……ちょっと、踊らせる胸があんのかとか言わないでよ。私になければナカヤマにもないことになるんだからね? いやたしかに貴女は着痩せしてるきらいはあるけど──


 閑話休題。

 担当ウマ娘であるナカヤマフェスタとそんなやり取りをしたのは、指先のあたたかさが心許なくなって、秋がすこしずつ深まりはじめたつい先月のこと。

 念願だった凱旋門賞挑戦は昨年に果たしていたから今年は国内専念で、秋天JC有馬の秋古バ三戦を最高の賭場に──そんなローテを組んで挑んだ秋天のあと。


 私はいつかの正月のときみたく、家じゅうどころかトレーナー室じゅうのカップ麺をナカヤマに没収されてしまっておりました。


 お代官様、いくらなんでもご無体です、先日買ったお高い名店シリーズのカップラーメンはお許しください! そもそもこれらは大事なお昼ご飯なんです! とかなんとか芝居を打ってはみるものの、敗者──子どもならともかく大人に対して手心を加えるようなナカヤマではないものだから。

 せっかく賞味期限に注意しながらちまちま買い貯めていたカップ麺類は見るも無残に容赦なく巻き上げられてしまったわけなのです。


***


「ごちそうさまでした」


 窓の向こうの明るさに比例するように暖かな室内は、廊下の向こうの生徒たちの明るい声音が届くくらいしんと静まりかえっていた。


 けれど、食前食後のあいさつはもはやクセのようなものだよね。


 取り回しのしやすい短さのお箸を置いて両手を合わせたところで『お粗末さまでした』とか『よろしゅうおあがり』だとかはもちろん返ってくるはずもない。

 サブトレーナーの採用はしてないし、担当ウマ娘であるナカヤマフェスタはきっといまごろカフェテリアで鯖の味噌焼き定食でもつついている頃合いだろうし。

 連れ合って外食へ出かけるような友人がいないわけでもなかったけれど、仕事熱心なトレーナーというのはお箸やらマグカップやらを片手に書類やら動画やらとにらめっこをするものだ。

 もっとも私は──単純にトレーナー室から出るのが億劫というのもあったし、それに……。


『今週の作り置き弁当は、ウィンナーの生姜焼きとブロッコリーのナムルです!』


 マグカップの中のほうじ茶を飲み干し、お箸と食べかすひとつ残していないお弁当箱を重ねて立ち上がろうとした矢先、横置きしていたスマホにチャンネル登録中の新作動画通知が届く。

 なるほどウィンナーの生姜焼き。生姜焼きといえば豚肉が鉄板だけど──なんて意識を持って行かれたところで。


 こんこんこん、ノック三回。どうぞと答えるより先に、トレーナー室の扉が開かれた。


「邪魔するぜ」

「いらっしゃいナカヤマ。お昼もう食べたの? 早いね?」


 ためらいのひとつもなくトレーナー室に脚を踏み入れたのは私の担当ウマ娘。

 これからの季節、ニット帽がもこもこと目に暖かい、ナカヤマフェスタそのひとだった。


***


「目当ての定食が目の前で売り切れちまってな。鯖の味噌焼き。縁起も良くねぇし、購買の惣菜パンですませてきたとこだ」

「あぁ、いやな負け方しちゃったね」

「だろ?」


 後ろ手で扉を閉めて、ナカヤマフェスタは芝居がかった様子で両手を広げ肩をすくめてみせた。それは無念とばかりに軽く眉をひそめてみたものの、私は内心ガッツポーズを決めている。

 なんでかって? ……担当ウマ娘が勝負に負けたから、とかじゃないよ。学食で提供される今日の献立から、ナカヤマがどれをチョイスするのかを見事当てることができたから! 

 そりゃあね、メイクデビュー前から二人三脚も五年目に突入すれば、なんとなく担当ウマ娘がなにを考えているだとかはわかってくるものだもの。麺類、ヘルシー、中華、魚料理、肉料理の五種類の日替わりランチの内容は毎日チェックしているし、必要とあらば栄養面を考慮してメニューを指定したりもするんだから。

 そんなわけで、朝イチで学食の日替わりランチメニューを確認して、おそらくこれだろうという目星をつけた。実際、鯖の味噌焼きに彼女が舌鼓を打つことはなかったけれど、当たりは当たり。勝ちは勝ち!


 「ソファ借りるぜ」

「どうぞ」


 もっともそれを口にしてしまえばナカヤマが渋面を作る可能性もあったから心の中にとどめておくわけだけど。


 まるで十一月だとは思えない温暖な気候は、寒がりの私たちにとってはありがたいことこの上ないよね。その上、この時間帯の窓際にあるソファスペースは満腹のしあわせに満ちた身体をころりと寝かせる最高の日当たりになっているんだから。

 そんなわけで、私の担当ウマ娘は昼休憩にふらりとトレーナー室へやってきて、やわらかなソファの上で身体を丸め、午睡にいそしむことがある。夜にはよく眠る子なんだけどね。アスリートとはいえまだ十代の女の子。夜ふかしだってしてしまうこともあるよ。凱旋門賞を経て彼女を取り巻いていたさまざまな懸念が雪解け水みたくすこしずつ温んで強く気を張らなくてもよくなればなおさらだ。


 ふと視線を下げると通知ランプがちかちか。作り置き弁当の通知の上、上がってきていたのはウマ娘トレーニング用の専用アプリからのお知らせだ。ディスプレイに指先を滑らせるといくつかの惣菜パンとパックのオレンジジュースの情報。

 ナカヤマってこういうところ『きっちり』している。レース準備期間となれば食事内容のチェックも必要になってくることがあるよ。でも今回はそうじゃない。栄養面に配慮された学食じゃなくてジャンクフード的な購買のお惣菜パンを食べたからって理由で、送ってきてくれている。

 そもそもナカヤマってレースのことになるとかなり協力的だ。メイクデビュー前──私と組む前は手のつけられない問題児扱いをされていたみたいだけど、……でもね、私が特別なわけじゃないんだよ。ちゃんとね、彼女に納得してもらえるような言葉を用意しておけばいいだけなんだ。

 納得さえしてくれたら、ナカヤマは素直な子なんだから。やる前からああだこうだとケチをつけたりはしてこないし。思うことがあっても発言するのはちゃんと注意深く状況を窺ってから。だからね、周囲が思うほど反抗的なわけじゃないんだよ。


 昼食内容をざっくり把握したところで、視界の端、藤色のセーラー服が目に入る。

 思わずぱっと顔を上げると、ソファを借りると言っていた担当ウマ娘が立ち止まり、しげしげとなにかを眺めていた──ランチジャーのかわりに買った、変哲のない、シンプルな長方形のお弁当箱。

 ニッ、とナカヤマの薄い唇の端が上がる。


「ちゃんと作ってきてんじゃねぇか」

「お手軽なものだけどね」


 ウマ娘用栄養管理アプリをとじるかわりにさっき届いたばかりの通知をタップすれば、ウマチューブにリダイレクトされる……ウィンナーの生姜焼きとブロッコリーのナムルの作り置きお弁当動画。

 どうぞ、って差し出したスマホを受け取るナカヤマを横目に、あらためて空のお弁当箱とお箸、それからマグカップを手に立ち上がった。


 おひるごはん……なんて、巻き上げられたカップ麺の山を前にして嘆いていた私。

 そんな敗北者に対し、担当ウマ娘はこう提案してくれたんだ。


『即席麺ばっかに頼ってねぇで弁当を作れ、弁当を』


 ってね。


***


 べつに料理ができないわけじゃないんだよ。たしかに普段から外食か即席麺かコンビニ弁当の生活だけど、けして料理ができないわけじゃないんだよ!

 なんて主張に対し、ナカヤマはわかりやすく鼻で笑ってくれた。いや、わかるよ。私だってあきらか言い訳っぽいって思ったもん! いやでもね、そもそも料理ができないならステンレスランチジャーなんて買わないでしょ。や、まあ、いまごろそのランチジャーは戸棚の奥で眠りこけてるわけだけど。

 それにいつだったかのバレンタインデーに、おかゆ、作ってあげたじゃない! 


 すっかり耳慣れたジングルとともに聞こえてくる動画主のあいさつは、シンクの蛇口をひねればすぐ聞こえなくなってしまう。洗い桶に入れたお弁当箱が浸かるのを待って、乾いた食器洗浄用のスポンジを掴んでえいやと流水で濡らした。


「──っ、……!」


 水温む、って言葉があるじゃない。春が近づくにつれて触れる水の温度がすこしずつあたたかくなる。反対語ってなんだろう。水凍てつくとか? とにもかくにも、たとえ温暖な昼下がりであろうと給湯器を通していない水道水はキンと冷たくて、思わず奥歯を噛んで身を縮めてしまう。水温で季節のうつろいを感じるの、なんとなく文学的だけど。

 もっとも、食器用洗剤を泡立ててお弁当箱を洗っていればそんな浪漫なんて飛んでいく。つめたい。手がかじかむ。手がかゆい。だんだん感覚がなくなってきそう……なところでお弁当箱を水切りカゴに立て掛ければほっと一息。せっかくトレーナー室に流し台があるのだもの。お弁当を食べたついでにお弁当箱も洗ってしまえば匂いもこもらずにすむし。

 まあときどきお弁当箱を乾かしたまま忘れて帰ることもあるんだけど……両手を拭いつつ振り返ると、担当ウマ娘はひっかけてきたパイプ椅子に腰掛け、私のスマホに視線を寄せていた。

 足癖悪く膝を組んだナカヤマのその表情は──あまり芳しいものじゃない。


「来週のお弁当メニューはそれにするつもりなんだ。お手軽でおいしそうでしょ」


 って言っても内容はまだ見てないけど。ただ見なくても毎週更新の動画が作りやすさと美味しさ、それから栄養もきちんと兼ね備えてるのは知ってるし。ほんの少しだけ眉間が寄っているのは把握しつつ、つとめてアピールポイントだけを伝えてみた。

 わかるよ、ナカヤマ。私はあなたが何に対して渋面なのか、わかってる。担当ウマ娘の向かいに腰掛けると、明度の低い葡萄色の瞳に一瞥される。それでも気圧されることなく平静を保っていると、やがてあからさまな風のため息が落ちた。


「飽きねぇの?」

「そこは、ほら。カップスープとかで彩りを」


 上蓋を剥がしきっていないけどすでに空っぽのスープポーションを指し示せばナカヤマの視線はさらにとんがった。

 いろんな言葉を飲み込もうとしてる、そんな感じ。もっとも──基本的にぐっと飲み込んで妥協するの、彼女の柄ではないんだけれどね。


 勝者たる担当ウマ娘の提案は、毎日お弁当を作ること。

 では敗者である担当トレーナーはそれをどう実行したかというと、休日に一週間ぶんの冷凍作り置き弁当をこさえて、お弁当作りの時短に励むこと、でありました。


 ね? あなたの担当トレーナーは、提案どおり『お弁当』は作ってるでしょう? そんな気持ちをこめて首をかしげてみせると、ナカヤマはやれやれとばかり。


「たしかに一週間おなじメニューにはなるけど、作り置き弁当ってリーズナブルなんだよ?」

「そんくらいわかってるよ。昼食にかかる買い出しが一度で済む。調理だってそうだって言いたいんだろ?」

「レンチン一発解凍がお手軽だし!」


 まあそのおかげで電子レンジ対応していないステンレスランチジャーは現状お役ごめんなわけですが。


「動画は毎週更新されるからメニューに迷う必要もないし! なによりちゃんとおいしいし! 捻出した時間で、あなたのことを考えられるじゃない!」


 料理、けして作れないわけじゃないけど、こだわりがあるわけでもない人間としては、効率なことこの上ないし!

 どうだどうだとばかりに言葉を重ねる私、ウマ尻尾があったら得意げに振られてたかもしれない。

 そんな私を見て担当ウマ娘はあきれるを通りこしてしまったのかもしれない。思うところがいくつかありそうなため息をもうひとつ。

 動画の再生も終わり静かになったスマホを差し出されたから受け取ろうとして──。


「……!」


 ナカヤマは、それはそれはわかりやすくぎょっとした顔をした。

 

***


 ポーカーフェイス、って表現があるじゃない。あるいは無表情。ナカヤマフェスタという女の子は、それほど表情豊かじゃない方だ。今風に言うなら『スンッ……』としてるっていうのかな。JKだった頃からだいぶ経ってるから表現として適切じゃないかもしれないけれど。

 かといってまったく笑わないわけじゃない。楽しみな勝負の前はわかりやすくギラギラしてるし、逆に萎えてるときは不機嫌な顔してるし。ゴールドシップと遊んでる時は小学生男子みたいな感じだし。

 くるくる感情豊かに表情を変えるわけじゃない。でも、意図的に『素』の表情は出さないようにしてる。何にも包まれていない『素』って弱さにも直結しかねないし、勝負に影響が出てしまうのをなによりも嫌うから。


 そんな彼女が、びっくりするくらいぎょっとした顔をした。スマホを受け渡される際に触れた彼女の指先が温かいな、なんて思った矢先。ごとん、なんて音を立てて、私たちを隔てていたテーブルの上にスマホが落ちた。


 あ、と声を上げたのはほぼ同時。すまないとばかりの目配せに首を振る。


「受け取りそびれちゃってごめんね。カバーもしてるし平気だよ」


 職業柄スマホが地面とお友だちになることはそこそこあるから、耐久性に優れた学園推奨端末にしてるし、保護フィルムだって抜かりなし。

 そもそもそんな高所から落としたわけじゃないし。……そんな風にフォローしてみるも、ナカヤマの様子がおかしい。ただでさえ治安が悪めの目つきがさらに鋭くなって、薄い唇もひん曲がってる。

 これは……不機嫌というか……腑に落ちないというか……不満というか……納得がいっていないというか。

 

 つまるところ。

 思うことがあって一度は口をつぐむことを選択はしたけれど──状況を鑑みたときのそれ。

 やる前からああだこうだとケチをつけてはこないけれど──彼女の中で妥協ができなくなったときの……。


「トレーナー」

「なに?」

「手」

「手?」


 思わずオウム返しをしてしまった。寄越せ、とばかりに手のひらを向けられたものだから、意図はわからないままだけど自らの手を彼女のそれに重ねる。

 年相応にやわらかな手のひら……だなんて言わない。握力のぶん厚い皮膚。それでもまだ手指のかたちは年相応。……口調だって荒れてるし趣向だって大人のそれだけど、こういうところは、ちゃんと女の子。


「ナカヤマの手、あったかいね。子ども体温って感じ」

「ガキじゃねぇしそもそもアンタのが冷たいんだよ」


 重ねた手の甲を、担当ウマ娘の親指がそろりとなぞる。あたたかくてちょっとくすぐったい。ぬくもりを盗むわけじゃないけれどついつい手を握ってしまいそうになるよね。

 ガキじゃないって否定するのはよけいに子どもっぽくてかわいいなんて言おうものなら不機嫌を通り越してしまうかもしれないからやめておく。

 トレーナーとしては、まだあなたに子どもでいてほしいけれど、一番むずかしい年頃でもあるからさ。


 さておき。

 何か一言物申されるだろうと思っていたけれど、ナカヤマは口をつぐんだままだ。彼女にしてはめずらしく、なにかに迷っているのかもしれない。あるいは言語化までにいたっていないか。はたまた糸口を見つけられていないのか。

 これから詰められる可能性のある立場としてはしらばっくれることだってできたけれど──私は彼女の指導者でもあったので。


「お弁当のこと、怒ってる?」


 そっときっかけを作ってみるのです。


***


「別に」


 動画再生も終わってしまっていたし、予鈴が鳴るまでにはまだ時間はあった。窓のむこうで昼休憩を春のように謳歌する生徒たちの歓声が聞こえてくる。

 それから、トレーナー室をつつがなく暖める空調の稼動音。私とナカヤマの手はつながったまま。問いかけに対して返ってきたのは字面だけならそっけない。

 でもそれは放り投げるようなニュアンスじゃない。ただの拒絶じゃなくて、ワンクッションだというのがわかったから、私はナカヤマの次の句を待つ。

 眉をひそめて、据わり気味の瞳が何度か瞬き迷うように泳いだところで、本日何度めかのため息が落ちた。怒りでも呆れでもない、……困ってるやつ。

 そして、伏し目がちだった葡萄色の視線が私に向けられる。


「……弁当作らす手間を増やしたのは悪かったとは思ってるさ」


 怒ってる、とか、怒ってない、とか。そんな返答が続くと思っていたからちょっとびっくりした。

 お弁当作れ、って話だったと思うのだけど、作らせるのが悪かった? どういうこと?

 私が目を丸くしたのに気づいたのかナカヤマは体裁が悪いとばかりに目を逸らすけど、小さく首を振る。

 そして、そのあたたかな指先で、私の手をそっと包み込んだ。


「昼食のつど監視するわけじゃねぇんだ。アンタが私の『いいつけ』を、見えないところで守り続ける理由なんてないだろ?」

「それはそうだけど、でも、作ってる以上はズルしてるかな、って思って。ナカヤマ的には、もうすこし手の込んだお弁当を食べてる、って思ってたんだよね?」


 たとえるならば、こんもりとまぁるい湯気が広がる、つやつや炊きたての白米。

 たとえるならば、体をいたわるような、やさしい味つけのスープ。寒くなる季節だから生姜なんかが好ましいかも。


 手間暇……とまではいかない。おかずは冷食を使ったり前の晩に買ったスーパーのお惣菜にするかもしれないけど。

 そういうものを、ステレンズランチジャーに詰めて、お昼に食べる。


 一週間同じメニューの冷凍作り置き弁当が、毎朝用意するそれらに劣るなんてナカヤマは思ってない。思ってないからこそ彼女は言葉を選ぼうとしている。だってさっき、実際に調理動画を見ていたわけだし。

 ただてきとうに作ったものを冷凍してそれを解凍して食べるものじゃない、ってことは理解してる。

 でも納得はいってない。だから、歯切れが悪いんだ。

 

 何に納得いってないんだろう? 声のトーンから、表情から、仕草から、もうすこし深いところを探っていく。

 上手に言葉にできないからって感情に任せるような子どもじゃないことは知ってる。けれど、不本意な心情をやり過ごしきれるほど、彼女はまだ大人でもない。


 時間にしておそらく一分も経たない空白。ナカヤマのあたたかな指先が、──わざわざ盗もうとしなくったって、私の手にぬくもりを分け与えてくれている。

 まるで、春のあたたかさが氷でもとかすみたいに。……春なんてまだ遠い、冬すらまだはじまったばかりだっていうのにね。


「たとえば、だ」


 新雪を踏むみたく慎重に、担当ウマ娘が口を開いた。


「もし今後、私が惣菜パンばっか食うことにしたら、アンタはどうする?」

「……熱でも出た? って心配になるかな。だってナカヤマってそこそこ食い道楽なところあるよね」


 また質問に対して答えが返ってこなかった。遠回りしないと伝えづらい内容なのかも。

 ちなみに食い道楽、という評価に対して担当ウマ娘は「それはねぇよ」と一刀両断。……ちょいちょい外食しに行くしちょいちょい誘われるし食べ物の話をしてることもわりとあるんだけどね。グルメとまではいかないけど、食べること、けっこう好きなんじゃないかって思うんだけど。


「あとは食事指導をするかな。せっかく逐一報告してくれるんだし。……夜食にカップ麺を食べた、とか」


 わたしが買ったカップ麺! 本人に見せつけてる意図はおそらくないと思いたいんだけど、ちゃんと報告投げてくれるし。

 たとえば惣菜パンを毎日食べるとしても、ベースに食堂の単品メニューをつけ加えてもらうようにするとか。

 サプリメント系はあまり常用してもらいたくはないんだけど必要とあらば。

 もっともナカヤマは節制できるタイプだし、たらればでしかないけどさ。レースに対して本気でいたいだろうからわざわざ虚偽報告なんてすると思ってないよ。もしもの話。

 それから──なんて、ナカヤマの担当トレーナーにできることを指折り上げていく中、そういえばついつい流れで振り払うことなくあたたかな手を享受しつづけていることにふと気づく。

 なんだか不思議だよね。いまさらだけど。ナカヤマは優しい子だよ。でも、こうして手を繋いだりすることなんて、いままでなかった気もする。

 とってもあったかい、でも……そのせいで彼女の手はほんのり冷たくなりつつあるんだけど、大丈夫かな。

 


 そう、ぼんやり考えた矢先。


 ぎゅ、と、ナカヤマの手に力がこもる。それから、やっと言葉を見つけたみたいに──すみれ色の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。


「アンタを管理できるのは、アンタだけだろ」


***


「……うん?」


 なんて。

 さっきテーブルに落ちたスマホみたいに渡されたことばをうまく受け取ることができなくて、思わずおかしな反応をしてしまった。変わらず手はつながったままだから、実際になにかを取り落としたりはしていないけれど。

 思わぬ投球。視線がそらされる。これはいけない。なかったことにされちゃう。やっぱりいい、とか、そういうのを彼女が言い出す前に、担当ウマ娘の手を握り返した。

 握り返されるなんて露ほどにも思ってなかったんだろうね。またびっくりした表情。虚はついたから次は思考をぐるぐると高速回転させる。


 アンタを管理できるのはアンタだけ。

 わたしを管理できるのはわたしだけ。


 この管理はきっと食事指導とか専用アプリによる栄養管理や体調管理のことだ。管理、って言い方はちょっぴり語弊があるかもしれないけれど、担当トレーナーとして、担当ウマ娘がよくあれるようにあれこれ確認をとったりああだこうだと考えたりよりよいことを取り入れたり。


 あなたのために。

 あなたが思いっきり力を出せるように。

 あなたはわたしの担当ウマ娘だから。

 あなたはまだ学生だから。子どもだから。


 ああ、もしかして。

 

 わたしの冷たかった手は、いつのまにか雪が解けたようにあたたかくなっている。握り返しても振り払われることはない。


 どうして振り払われないかって? わたしの手が冷たかったから。器用なこともできるのに不器用に、わたしを温めようとしてくれているから。

 栄養がかたよるカップ麺を没収してきたのも、お弁当をきちんと食べさせたがったのも。


「大丈夫だよ、ナカヤマ」


 心配しなくても、とか、心配しないで、とか言ってしまうと、心配とかじゃないとか言って温かな手が逃げてしまいそうだったからそれは心にとどめておいて。


「ナカヤマの手があったかいから、大丈夫」


 あなたの優しさは、ちゃんと受け取っているから。


***


 なんのことはない。つまりわたしは担当ウマ娘に食事の心配をされていたのです。

 いろいろ端折った返事に対しナカヤマは律儀に「いや何がだよ」とツッコミを入れてくれた。うんわかる、なにが大丈夫なんだろうね。わかるよ。わたしもそう思う。わたしもたいがいナカヤマのこと言えないや。ちっともキャッチボールできてない。


 でもきっと、上手に言葉にしてしまうと、またべつの意味になってしまう気がしたんだ。

 担当トレーナーと担当ウマ娘、とか。

 大人と子ども、とか。

 そういう枠組みの中にある淡々とした無機質なものに変わってしまうような、そんな気がして。


 もしかするとナカヤマも同じなのかもしれない。それ以上の追求はされないまま──


「……ほんのり温かくなってきた」

「だろ? 温感ハンドクリームだからな」


 わたしは担当ウマ娘手ずから、ハンドクリームを塗られていた。

 温感クリームの存在は知ってるよ。患部の状態によって温湿布と冷湿布の使い分けが必要になるみたいに、トレーナー室の医療品一覧に温感クリームもあるからね。

 ハンドクリームもあるんだね、なんて言ってみたら「手指が思うように動かねぇの、イライラするだろ」なんて言葉が返ってくる。


 あたためたハンドクリームを、まずは手のひら全体に。するするとなでられるのがくすぐったくて思わず肩をすくめると、……あ、ナカヤマったら意地の悪い笑い方。


「くすぐるのはナシだよ?!」

「……しゃーねぇなぁ」


 手の甲、指の間、爪の縁。

 それはそれは丁寧に、ナカヤマの指先がわたしの指先をすくっていく。


「コマーシャルであったよねぇ」

「何がだ?」

「お母さんかな、おばあちゃんかな、忘れちゃったけど、子どもの手にクリームぬってあげるの。それみたい」


 青缶だったかなぁ。弟妹を大事にしているナカヤマのことだ。チビちゃんたちの小さなてのひらを、指先を守るみたいにていねいにクリームを塗ってあげている姿を想像する。

 ていねいに、ていねいに。ときおり指先に息を吹きかけながら。

 微笑ましい光景を思い描いていると、ハァ、なんてあからさまなため息が落ちてきた。


「じゃあなんだ? 私はアンタの母親か祖母とでも?」

「ご飯のことも心配してくれたし、そうなのかも?」


 いや、年下の、しかも担当の女の子に母親だとか祖母だとかはさすがにないけど。

 冗談めいた返しに──ナカヤマはというと、不機嫌とばかりに据わらせた目をこちらに向けて。

 するり。

 両手の指先が絡む。手のひらと手のひらが向かい合うみたくぶつかった。


「そういうのになる気はねぇけど」

「うん?」


 またも言葉を受け取り損ねた。

 スマホは落ちない。受け渡したのは言葉だけ。


 わたしたちの手はつながったまま。


 担当ウマ娘は──ナカヤマフェスタは笑っている。

 なるほどな。なんて、ワンクッション。なにかに納得した? 見透かすみたいな視線に、どきりとする。


「なぁ」

「ん?

「こういうの、……恋人繋ぎって言うんだろ?」


 まるでわたしを試すかのようにうそぶいて。


 どうせなら、もっと私のことを考えろ、なんて、言うみたいにさ。



おしまい


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