据え膳食わぬは
「……」
スレッタは困惑していた。ちらりと目の前の彼へ視線をやり、慌てて手元のタブレットへ。表示されたスケジュールは事務仕事ばかりで、誰かに会う予定もどこかへ出かける予定も見つからない。
どうしたんだろう、と再びスレッタは顔を上げる。視線の先ではスレッタの雇用主、“本物の”エラン・ケレス本人が、険しい顔でモニターを凝視していた。
オーダーメイドの紺のスーツに革靴、いつも用事がない時はそのままにしがちな寝癖もしっかり直され―――いや、むしろ整えられている。
長い前髪は後ろへ流され、いつもは隠れている額があらわになっていた。それは先日、任務中止となったとあるパーティーで、スレッタの知る二人の“エランさん”がしていたのとよく似た髪型。
「……その、エランさま」
ほか二人と差別化させるために決めた呼び名は、まだ少しだけこそばゆい。最初はケレスさんと呼ぼうとしたのだが、早々に彼に却下されてしまった。曰く、それだといつかお前も該当するようになるだろ、と―――苗字が同じになる。まだまだ先のはずのそれに真っ赤になり、結局流されるまま、こう呼ぶようになったのだった。
スレッタの言葉に、眉を寄せていた彼が顔を上げる。怖い顔をしていると思っていたが、意外にもスレッタに向けられた表情は穏やかだった。むしろ何かを期待するように、黄緑の双眸がゆらりと揺れる。
「……なに? 4号あたりからメッセージでも入ったか?」
「いっ、いえ! それはまだ、ですけど……」
いま話題に上がった4号は現在、エランの代わりに少しきな臭い企業の総会に潜入中である。安全が確保されている会合の場合は本人が参加するが、少しでも危険がある場合は影武者二人のどちらかが派遣される。それに今回は4号が選ばれたというわけだ。
念の為、手元のタブレットをもう一度確認してみるが、それらしいメッセージは届いていない。何事もなく無事に戻ってきてくれればいいと願いながら、スレッタは息を吐いた。
「……」
普段のスレッタは基本、エランの秘書のような仕事をしている。スケジュール確認やデータの裏取り、必要備品の発注納品に加え、しまいにはロボット掃除機のカートリッジを変えたりコーヒーをいれたりといったことまで。先日のようなパーティーへの潜入捜査は稀で、パートナー同伴必須のものぐらいでしか駆り出されることはない。
ひとえに心配なのだと説き伏せられたが、スレッタだって適切な訓練を受けた立派な構成員の一人である。大切にされるのは嬉しいが、だからといって彼らばかり危険な任務に行かせて自分は安全な場所で待つだけだなんて、本当は嫌だった。
「……もうこんな時間か。少し休憩しよう」
「あっ、はい! 今日も紅茶で大丈夫ですか?」
「ああ」
慌ててタブレットを置き、隣に併設されたキッチンへと向かう。お湯を沸かしている間にお茶菓子も用意し、2人分のカップを持ってオフィスに戻れば、エランは首元をゆるめ、くつろいだ様子で椅子に背を預けていた。
「ん、ありがとう」
いつの間にかエランの隣に用意されていた椅子に、なんの疑いもなくスレッタは腰掛ける。キーボードなどが避けられた机の上にトレイを置き、温まったカップに紅茶を注いだ。
「……それで、さっき声掛けたのは何だったのさ」
「えっ!? あ、えっと、その……」
やはり気づかれていたのだ、と思って顔を伏せる。しかしエランは咎める様子も深く探る様子もなく、静かにカップを傾けた。
「ん、美味い」
「あ、ありがとうございます……えと、さっき、ですけど」
湯気の立ちのぼるカップには触れず、スレッタはキュッと膝の上で拳を握った。
「きょ、今日は何か、極秘の予定でも……?」
いつもよりきっちりとした服装に、初めて見るヘアセット。でもスレッタにも共有されているスケジュールに、それに見合った予定は表示されていない。考えられる可能性は―――一番近くにいるスレッタにも秘密の、何か大切な会合か何かだろうか。
別に隠し事をされて拗ねているだとか、教えてもらえないことを寂しく思っているわけではない。お仕事だから、仕方ないのだ。裏で暗躍する彼は、自分よりずっとずっと色んなことを抱えて、それら全てを計画通り動かせるよう常に思考を巡らせている。
ただ、そう。少し、ほんの少しだけ―――大切だからとか、守りたいだとか、そんな優しさに包まれたまま、頼れる存在になれない自分が不甲斐なくて、ちょっぴり悲しくなってしまっただけで。
「極秘の? 予定は共有した通りだし、別にないけど」
暇を持て余して焼いたショートブレッドをつまんで、エランはさらりとそう返す。スレッタは目を瞬かせた。
「じゃ、じゃあっ、どうして今日は、そんな……」
「……変な格好して、ってこと?」
「いいいいいえっ! ぜんぜんっ! すごく、かっこいい、です……」
先日のエランさん達にもそうだったが、いつもと違う姿にドキドキと胸が高鳴る。落ち着かなくなってすすった紅茶の味も、よく分からない。せっかく美味しい茶葉を地球から送ってもらったのに。
「……そうか」
どこか満足そうな彼の声と共に、腰に腕が回される。
「ひょわぁっ!?」
「やっぱり“俺”は、どんな格好でも様になるよな」
確かめるような声とともに、勢いのまま膝に乗せられたスレッタは大きな目をぱちくりさせた。幸いにして中身のなくなっていたカップをそうっとソーサーに戻し、自身の肩に頭を押し付ける恋人に手を伸ばす。よしよしと撫でようとして、しかしそれでは髪が崩れてしまうと、行き場をなくしたそれはしっかりと糊のきいたストライプのシャツへ。
「え、えっと……でも、パジャマのままお仕事するのは、やめてほしい、です……」
「……善処する」
ごく稀に、エラン寝て起きたときの姿のままオフィスへとやってくる。頭には寝癖、服は上下同色のスウェット、何ならたまにスレッタの髪色と同じ赤いクッションを手に持ったまま。それでもペースは崩さず仕事しているのは流石だと思うが、どうしてもだらしなく映る装いと仕事の効率の良さとのギャップには驚かされるばかりだ。その時の眠たげなエランの姿を思い出し、スレッタは小さく微笑む。
今日のようにしっかりと決めた姿を見るのも良いが、仕事のない休日ならばああいう姿を見せてくれるのも悪くない。だってそれは、スレッタに心を許してくれている証明に他ならないから。
常に何処かから命を狙われてる、裏世界の革命者。ペイルはもう存在しないが、裏切ったも同然の彼を追う者はいまだ存在する。そんな彼が無防備に寝顔をさらし、さらには何も武装しないありのままでいてくれるのが自分たちの前だけだと思うと、どこか誇らしくさえ思えてきた。
「……あっ」
―――ピロン、軽やかなメッセージと共に、目の前のディスプレイにメールのマークが浮かぶ。
「見てください、エランさんからメッセージです。任務完了、これから戻る、だそうです」
特に問題なく、無事に終わったらしい。ほっと息を吐けば、腕の中の愛しい恋人を吸っていたエランは、どこか不満そうに声を上げた。
「……あいつ、やっぱりどこかで見てるんじゃないのか」
なんでこう、いつもタイミングが最悪なんだよ。拗ねたような声が幼くて、スレッタはまた笑う。どうにもたまらなくなってエランに向き合うようにして体をひねり、そのまま目の前のおでこにそっとキスをした。先日のように。
ただ、そう。可愛いひとだなと、そう思っただけだったのだ。スレッタは。
しかし。
「……なに、誘ってる?」
「さそっ!? ち、違います、ちょうどいい所におでこがあったので……?」
「……なるほどな」
じゃあ、ちょうどいいところに愛しの恋人がいるから。そう言いつつスレッタを抱き寄せたエランは、片手でキーボードを操作し、オフィス入口の鍵をかけた。まぁあいつらには意味が無いと思うが、時間稼ぎぐらいにはなるだろう。
―――任務から戻ってきた4号と、休暇だった5号がお土産を手に帰ってくるまで、あと三十分。
その間のあんなことやそんなことは、二人だけの秘密。