挑発
叫谷
現世や尸魂界に比べると、幾分か暗色にくすんで見える青空に、目も眩む暴力的な光が走った。
色濃い霊子で満ちた叫谷を揺らす衝撃、耳を劈く爆発音が閃光に遅れて響き渡る。
空から円状に広がった衝撃波は僅か数秒で地上にまで到達し、直下に造られた豪奢な宮殿の屋根がバキバキと音を立てながら剥がれ飛んだ。
「なんだ!?」
視界を灼く光と吹きつける爆風に、その場に居た者達は皆、思わず武器を握る手を止めて爆心地に意識を集中させた。
激しい爆風と飛来する宮殿の瓦礫から顔を庇って天空を仰ぐと————
先刻までそこに浮かんでいたはずの空中楼閣が、跡形もなく消え去っていた。
「なッ……!」
死神や破面と対峙しながらも、常に厭な笑みを浮かべて余裕を崩さなかった時灘でさえ、あまりの出来事に大きく目を見開き口を開けて固まった。
やがて——爆風が止み、煙が晴れる。
かつては王城を思わせる巨大な建造物があった青空に立つのは、一人の滅却師。
「……ッ、クハハハハハハハ! そうか、お前の仕業か!」
白い騎士服の上に漆黒の外套を羽織り、遥か高みから戦場を見下ろす姿は、いつかの滅却師の王を想起させるものだった。
冷徹な眼差しを向ける少女に向かって、時灘は苛立ちと高揚を混ぜ合わせた笑みで地上からその名を叫んだ。
「志島カワキ!」
『…………』
名を呼ばれた少女——カワキは、無言で眼下の光景を見下ろしていた。
と、次の瞬間————
空を見上げていた者達の視界からカワキの姿が消え失せる。
「……!」
刹那——ドサリ、と何かが地面に落ちる音が耳に届いた。
『ジゼル。修理しておいて』
時灘が声がした方向へと振り向く。
そこには全身が焼け焦げ、酷く損傷した赤土色の肌の少女——“だった”ものを荷物のように地面に置くカワキの姿。
足元に死体を投げ置かれた黒髪の滅却師——ジゼルが思わずといった態度で引いた声をあげる。
「うっわ……。よくこんな事思いつくよねぇ……すっごい威力だったよ」
「……ぅ……ぁ……」
呻き声を上げる死体——バンビエッタを受け取ってジゼルが下がる。
その様子を見届けて合点が入ったというように、時灘がカワキに言葉をかけた。
「成程……その娘の能力で空中楼閣を消し飛ばしたのか。滅却師共を裏切って死神についておきながら、随分と仲が良い事だ」
ニイ、と口元を歪めてカワキを見る時灘に、計画の肝を潰された事への焦りや怒りは見られない。
愉悦に満ちた顔で言葉を続ける。
「それとも、ただ利用しているだけか? 黒崎一護達の友人のフリをして、見えざる帝国に情報を流していた時のように」
『…………』
身じろぎ一つせず、無言で時灘を眺めるカワキは作り物のようで、この一場面だけを切り取って見れば時灘が物言わぬ人形に語りかけているような異様な光景に見えただろう。
気にする事なくカワキを煽るような言葉を繰り返す時灘だったが、その心の内では冷静に逃亡の算段をつけていた。
——こうなっては仕方あるまい、此度の遊びはここまでとするか。
大がかりな策略も、時灘にとって所詮は道楽。
空中楼閣を潰され、手間をかけた計画を阻止されたとて仕切り直せば良いだけだ。
しかし————
『理解に苦しむな』
「……なんの事だ?」
『言ったはずだ。「結果は既に“視た”。君は終わりだ」と。なのに……』
心の底から理解できないという様子で、全てを見透かした蒼い眼が時灘を捉えた。
『——なのに、どうして私から逃げられるなんて思っているんだ?』
「……!」
それは純粋な疑問。
自分が終わりを告げたのだから、お前の未来は既に定まっているのだという、傲慢ともとれる言葉だが——そこに時灘を愚弄するような色など微塵もない。
カワキはただ純粋にそれが当然の事だと考え、未だに自分の終わりを直視できないでいる時灘に首を傾げていた。
撤退の意思を見抜かれ、僅かに瞠目した時灘だったが、動揺は一瞬の事。
撤退するための隙を作るという実益と己の趣味を兼ね合わせて、笑いながらカワキを挑発し続ける。
「なんの話かわからんな。それよりも……意外だったぞ。まさか、ユーハバッハの娘であるお前が、私の計画を邪魔するとは」
『……それと君の計画になんの関係が?』
「なんの? 私の計画が成功すれば、お前の父親は霊王という名の贄の役割から解放されるのだぞ? すげ替えてやるのが父親の救済に繋がるとは思わないのか?」
口では殊勝な事を述べながらも、時灘の顔は楽しげに歪んでいた。
その表情は、本当の意味での「救済」を目指していない事など明らかだ。
それが解っているのか、カワキは挑発に顔色一つ変えなかったが————
時灘が告げた言葉は、思わぬ反響を巻き起こした。
「霊王が……贄?」
「……ユーハバッハが、霊王だと?」
時灘と、彼に向かい合うカワキに視線が集まる。
四大貴族の筆頭である時灘の口から吐き出された言葉は、何も知らずにいた者達に動揺を広げた。
好機と見た時灘は畳みかけるように芝居掛かった動作でカワキに叫ぶ。
「ああ、それともなにか? 滅却師の分際で、尸魂界の王族の地位が欲しいのか? だとすれば私を止めるのも納得だ! ……なあ、新たな霊王の娘よ」
ニヤリ、と半月を描く目は愉悦で満ちていた。
時灘は叫谷から撤退する上での目下最大の敵であるカワキの調子を少しでも崩そうとするも————
『君はさっきからなにを言ってる?』
「……?」
『私の父親は死んだ』
いたって冷静に、ただ事実のみを述べるカワキに、笠の下で京楽が微かにその表情を固くした。
カワキは、自分の言葉に首を傾げる時灘に向かって、真っ直ぐに父の名を告げる。
『私の父の名はユーハバッハ——すべての滅却師の始祖にして見えざる帝国の皇帝。私はあの戦争で死んだ陛下の子だ。霊王の子じゃない』
「…………。そうか。そうか、そうか! ははは! 死体は父ではないと言うか! なんとも酷い娘が居たものだ!」
目を丸くした時灘が、堪え切れぬという様子で肩を揺らして笑い始めた。
クツクツと笑う時灘に、今度はカワキが語りかける。
『君が霊王の解放を目指すというのも、妙な話だ。“綱彌代”時灘』
「……ほう?」
『親子だろうと先祖だろうと、所詮は他人だ。末裔である君が責任を負う必要がある事ではないけれど……』
時灘は、カワキの言葉に興味を惹かれたようで黙って続く言葉に耳を傾けていた。
『君が本当に霊王の解放を考えているなら霊王宮を模した建物を作るとは思えない。あれこそ、君達の先祖が生み出した牢獄のようなものなのに』
「くッ……」
淡々とした口調で疑問を呈するカワキの言葉に、時灘は思わず笑いを噴き溢した。
「クハハハハハハハハ! まったく、牢獄とはうまく表現したものだ! これは一本取られたな! 返す言葉もない! ああ、そうだ! あれは、我等が五大貴族の祖である五人の背信者が霊王という生贄の山羊を閉じ込めた檻だ!」
高らかに笑い叫ぶ時灘に、興味なさげな顔をしたカワキが冷たく言い放つ。
『なんにせよ、私には関係がない話だ』
そして、問いかけた。
『……さて。雑談の間に諦めはついた? 己の愉悦に命を賭けぬ人生に意味はない、というのが君の持論だろう? 君は賭けに負ける。支払いの準備は……いいね?』
——「己の愉悦に命を賭けぬ人生になんの意味がある」
それは、時灘が少し先の未来で口にするはずだった言葉。
時灘がニヤリ、と笑う。
「いいや? 愉しみはまだ続くさ」
そう言った次の瞬間。
時灘は、懐から色の違う転界結柱を一本取り出して床に突き刺し————
『——私は、それが輝くさまを視ない』
「む……?」
転界結柱は、発動しない。
『「どうして、私から逃げられると思っているんだ?」と、言った筈だ』
「やれやれ……私は、荒事は苦手だと言うのに」
直ちに撤退は不可能と悟り、時灘が刀を握り直した。
この先に待ち受ける未来も、その背中に迫った過去も知らぬまま。